SCALY-TALE

リタ(裏)

No.1 『Scaly-chaser』

 どこまでも続く波紋、黄金色の波。渇ききった草原が地の果てまで続いている。乾期のサバンナを風が吹き抜けるたび、アカシアの木立がざわりと揺れて葉を散らした。


 大洋を漂う藻屑のように、無味乾燥な大地を少女が歩む。その足取りは重く、明らかに弱々しい。容赦なく照りつける太陽の光を傷だらけの帽子が受け止める。その細い躰から滴る脂汗はあっという間に乾いた大地へ呑み込まれた。


 少女はぜいぜいと荒い息を吐き続けている。ぎこちない一歩を踏み出すたび、操り人形のように全身が大きく揺れた。だが、彼女は止まらない。何者かが少女の歩みを追っているからだ。これはごっこなどではない、本当の『狩り』だと彼女は本能で感じ取っていた。件の追跡者は弱々しい彼女の足取りに合わせてゆっくりと、だが確実に迫る。少女の胸中に怒りにも似た感情が湧いたが、すぐに苦痛と混ざって消えた。


「……何で。どうして。 誰か、誰か……」


 助けを求めるうわごとは誰にも届かない。石のように冷え切った手足とは対照的に、頭の中は今にも溶けだしそうなほど熱い。締まりなく開いた口の端から、泡立つ唾液が漏れた。これもすべて、あの『彼女』のせいなのだろうか? 今の少女にそれを確かめるすべは無い。


 ついに少女が草の中に倒れ込んだ。視界がぐるりとひっくり返り、青空に渦巻く雲を捉える。空へと向かって伸びた草が、まるで別れの挨拶のように風に乗って穏やかに揺れた。そのぼやけた視界の端に不意に影が落ちる。『ああ、やっと“迎え”が来た』と、少女は重い瞼をそっと閉じた。


 黄金色の波はすべてを呑み込み、サバンナは再び静寂に包まれる。屍肉を狙っていたハゲワシが名残惜しそうに飛び回っていたが、それも程なく雲に消えた。


 ――

 ――――


 冷たい夜風が頬を撫でる。長いまどろみから目覚めた少女は、凝り固まった指先をほぐすように開いた。体が言うことを聞いてくれる。体を起こすほどの力はないが、周囲を手探るぐらいならできる。思っていたよりも柔らかい暗闇に、恐る恐る指を這わせたその時。


「あら、目が覚めたようですわね。ご気分はいかがかしら?」


 突然の声に少女は肩を竦ませた。『青天の霹靂』とはまさにこのことか。頭上から投げかけられた挨拶に、少女は恐る恐る目を開いた。怯えた瞳で見上げる少女と、それを見下ろす女性の青灰色(せいかいしょく)の瞳。ふたつの視線が交錯する。


「あ、その…… た、食べないでください……」

「そんなこと、私はしませんわ。……それと、そんなに躰を触らないで欲しいのですけれど?」

「あ。ご、ごめんなさい。」


 少女は慌てて指を引き戻した。件の女性は自身の膝枕の上に横たわる少女の顔を覆い被さるように覗きこんでいる。身じろぎひとつせず、優しげな微笑みを浮かべながら。少女の背中に薄ら寒いものが走った。


「………あら、まだ悪寒がするんですの?毒は抜けきったと思っていたのだけれど」


 毒。そうだ、毒だ。少女の脳裏に過去の情景が浮かぶ。視界を埋め尽くすような枯草の波。右も左も、自分が何者なのかさえも分からないまま、舞い散る葉のように風に任せて歩き続けていたあの時。草陰から飛び出してきた影が世界のすべてを変えた。


「そうだ、僕はあの時…… あなたに噛まれたんです」


 少女は自身の首筋に触れた。腫れた皮膚の微かな熱と、ざらつく瘡蓋(かさぶた)の感触が伝わってくる。


 あの時飛び出してきた人影は、躊躇うことなく少女の首筋に牙を突き立てた。その時の痛みと恐怖はいまでも脳裏にこびりついている。組みついてきた件の女性を振り払い、果ての見えないサバンナを駆け抜ける。だが、まるで見えない鎖に繋がれているかのようだった。彼女から逃げ切ることはできなかった。その噛み痕は酷く膿み、否応なしに体力を奪っていく。その後の顛末は…… そこまで思い出して、少女は苦しげに息をついた。染みこんだ毒のせいか、こびりついた記憶のせいか。きっと、その両方だろう。


「さあ、そろそろお休みの時間ですわ…… 大丈夫。明日の朝には、毒は抜けているはずですから」


 女性は汗ばんだ少女の額を撫でさすりながら、優しげな声で嘯く。『なぜ、自分は安心しているのだろう』。少女は薄れゆく意識の中、心の矛盾を感じながらも眠りに落ちた。



 東の空が赤く染まり、煌々と輝く太陽が顔を出す。ねぐらから飛びだったフラミンゴの群れだろうか、塵芥のように細かな影が暁の空に映る。露に濡れたサバンナの草原は、まるで星屑をまとったように朝日を浴びて輝いていた。


 アカシアの木漏れ日が少女の顔を白く照らす。瞼を透かした朝の光が、火花のように彼女の頭を突き抜けた。額に貼りついた黒髪を払い、少女がゆっくりと目を開く。薄々と勘づいてはいたが、やはり昨日と同じ青灰色の瞳と目が合った。吊り上がった彼女の目尻が、ほんの少し緩んだように見えた。


「あら、お目覚め? さあ、これをお飲みになって。目が覚めますわよ」


 少女はゆっくりと起き上がり、器代わりの大きな葉を受け取った。その葉の上で揺らめく水玉には、少女の狼狽した顔が映りこんでいた。『大丈夫、ただ露を集めたものだから』と、女性は安全なことを暗にほのめかす。その言葉を無碍にもできず、少女はままよと一息で飲みこんだ。水分が五臓六腑を満たしていくのと同時に、周りの景色がはっきりと色を持ちはじめてきた。


「……だいぶ、楽になりました」


『ありがとう、かどうかは分かりませんが』と言い、少女は空になった葉を突き返した。自らを殺しかけた相手が、今度は命を救ってくれた。彼女の名も知らぬ上、自身が施しを受ける理由も分からない。生まれたばかりの少女にとっては、少しばかり難しい問題だ。


「あなたは…… いったい、何者なんですか。それに、ここはどこなんでしょう。ごめんなさい、僕、分からないことだらけで……」

「あなたはきっと、生まれたばかりのアニマルガールなのですわね。お気持ちは分かりますが、まずは落ち着いてくださる? ちゃんとひとつずつご説明いたしますわ」



 ――

 ――――



「コモドドラゴン、さん……?」

「ええ。『由緒正しいコモドの血を引く一族』の末裔なの。またの名をコモドオオトカゲ、気軽にコモモと呼んでくださる?」


 コモドドラゴンは『これでひとつ』といったように人差し指を立てた。どこか得意気な彼女を、少女は改めてまじまじと見つめ返す。目深に被った青い頭巾はどこか可愛げのあるデザインと裏腹に、なめし革のように厚く滑らかだ。ふわりと広がったスカートの端から、丸太めいた尻尾が覗いている。シボ模様のように細かい鱗に覆われたそれは、コモドドラゴンの呼吸に合わせてゆっくりと振れていた。


「2つめ。ここは“サバンナエリア”という場所なの。何にもないように見えるけれど、慣れれば良いところですわ。……それから、3つめ。あなたの正体について、なのですけれど」


 コモドドラゴンは言いよどみ、頬を少し膨らませた。少女の瞳に不安の色が浮かぶ。


「分からない、ってことですか? そうしたら、僕はいったい……」

「翼か耳があれば、だいたいの目星はつくのですが…… あなたはどちらも持っていないようですわね。強いて言うなら、その帽子がヘビみたいだけれど……」


『尻尾がないわ』と、問題は呆気なく振り出しに戻ってしまった。肩を落とす少女を慰めようと、コモドドラゴンは彼女の両手を取った。冷たく大きな手のひらが火照った少女の拳を包みこむ。


「……きっと、大丈夫ですわ。生まれたばかりはみんな『まっさら』なのが当たり前なのですから」


 少女は涙ぐんだ瞳で、それでも力強く頷いた。コモドドラゴンもそれに答えるように頬を緩める。つい昨日まで捕食者と獲物だった2人は、奇妙な友情を感じはじめていた。共に死線をくぐった仲だから、とでもいうのだろうか。死に瀕したのは1人だけなのだが。


「……でも、お名前がないと不便ですわね。ずっと“あなた”という訳にはいきませんし……」


 コモドドラゴンは値踏みをするように少女を眺める。何か特徴があれば、それを呼び名にすれば手っ取り早く分かり易い。例えるならば、“メガネ”カイマンに“アカミミ”ガメ。『チーム・噛んじゃうぞ』に属しているコモドドラゴンには馴染み深い名付け方だ。


「ええと、その帽子はあなたのもの? 素敵な飾り羽ですわね」

「うーん、気がついたら被っていたけれど、僕のものかどうか……」

「でも、だいぶ傷んでいませんこと? あなたと一緒に生まれたのなら、もっと新しいもののはずですわ」


 少女は穴だらけの帽子を脱ぎ、改めてまじまじと見つめる。その傷跡さえもどこか懐かしいような、得体の知れない切なさが胸を締め付けた。瞳の奥に浮かんだ哀愁を感じとり、コモドドラゴンは『帽子は止めておこう」と呟いた。


「それは…… どうしてですか?」

「それをあなたそのものにするべきではない、と思ったからですわ。それに、どうも…… あなたのものではない匂いがするの。とても薄いけれど、何か別のものが……」

「……そう、でしたか。じゃあ、“僕のもの”だって、言えるものはちゃんとあるのでしょうか」

「それなら、その背中の、“かばん”なんてどうかしら?」


 かばん。少女はこの言葉を反芻した。気の抜けるような名前だが、どことなく温かい。『そのかばんからは、あなたの匂いしかしないわ』と、コモドドラゴンが念を押すように言った。


「そのかばんは、あなたと一緒。今はまだ空っぽだけれど、いつの日か…… 素敵なもので満たされる日が来るはず、ですわ」


『どうかしら、かばんさん』。コモドドラゴンが問うた。少女は顔を上げ、コモドドラゴンをじっと見つめる。その瞳から憂いはすでに消え去り、新たに希望の光が宿っている。“かばん”はようやく、自身がこの大地に立っているという実感を得ることができた。これこそが自分の名であると、胸を張って表明できるのだ。この広いサバンナでも、決して見失うことのない道しるべだ。


「ありがとうございます、コモドドラゴンさん。僕の名前は、そう、“かばん”です!」

「コモモでいいですわ、かばんさん。……つまりは、これからもどうかよろしくね? うふふっ」


 サバンナの太陽は、まだ昇りはじめたばかりだ。

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