第3話 母音はいくつ? (2)

 「上代特殊仮名遣い」は、日本語学が国語学と呼ばれていた時代に珍説奇説が大量に発表されてしまったため、よくわからないという印象を持たれることもあるが、内容は実に単純で、奈良時代に書かれたとされる『万葉集』や『古事記』ではキ、ギ、ヒ、ビ、ミ、エ、ケ、ゲ、ヘ、ベ、メ、コ、ゴ、ソ、ゾ、ト、ド、ノ、モ、ヨ、ロを表す漢字が二種類あり、単語によって使い分けられている、というただそれだけのことだ。たとえば「君」の「き」と「木」の「き」が同じ漢字を用いて書かれることはなく、「雪」の「き」は「君」の「き」と同じ漢字で書かれることはあっても「木」の「き」と同じ漢字で書かれることはない。このような現象を説明するときに一番合理的なのは、発音が違ったと仮定することである。中国語から「君」の「き」は現代語のキに似た発音、「木」の「き」はそれより少しクに近いクィのような発音だったことがわかる。しかし国語学者たちはこれでは満足せず研究をつづけた。ある者は「ウラル・アルタイ語族」にみられる母音調和の名残である中舌母音だといい、ある者は意味の区別に関係ない発音上の癖のようなものだといった。

 細かい発音を探求することに何の意味があるのだろうか。実はそんなに意味はない。たとえばこの場合は、少しクに近いキということがわかるだけで十分なのである。それ以上のことはわからないとしか言えない。それに気づかず国語学者たちは何十年も中舌母音だのサ行はツァ行だっただの言っていたのである。なぜ言語学の教育を受けたものが平気でそんな説を発表していたのか疑問である。今と違い情報が手に入れにくい世の中だったことも事実で、単純に批判することもできないのだが。

 とにかく八母音や五母音などいろいろな説が出された後で、現在はi, e, ə, a, u, oの六母音が通説となっている。ここに出てくるəは唇を丸めないオに近い音である。(中国語のeや韓国語のeoを想像してもらうとわかりやすいかもしれない)

 いずれにしても上代日本語は現代日本語の共通語より母音が多かったといえる。

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