第2話 消えた「里」
夕方になると、望の「お兄ちゃん、明日も来てね」という声が聞こえてくる。
その声に誘われるように会社帰りに「家庭料理 里」に行き、望の話しを聞きながら数品を食べて店をでる。それが、草薙の日課となっていた。夕暮れ時に行って日がくれる頃には帰るので、他の客と会うことはなかった。
女将の名前は真紀といった。何回か通ううちに、草薙も少しづつ真紀と望の会話に入ることができるようになっていた。
「草薙さんは、エリートなんですね。T大出て、そこのM商事で働いているなんて」
草薙はいつものように少し間をおいて答える。
「いや。学生時代はいつも勉強ばかりしていたので。勉強は得意でした。ただ、自分は、会社では役に立っていないようです」
草薙は今日も上司から言われた言葉を思い出すのであった。
「期待の新人だったのにな。それが、たった一年でこの部署に配属になった。その理由をちゃんと考えなよな」
入社時の花形の部署から今は主流から外れた部署に転属されていた。上司に嫌味を言われても草薙は自分をどう変えればいいか分からなかった。
入社した時から、上司や同僚とどう話しをすればいいのか分からなかった。学生時代は勉強をしていればよかったが、会社に入ったとたんに、それまでの草薙の生き方とは全く違う生き方が求められ、全く新しいルールの中に組みこまれてしまった。それからずっと、草薙はどうしていいか分からないままだった。
最初は辛いと思っていたが、最近はその感情も湧かなくなってきた。しかし、ストレスは溜まっているに違いない。退社時間に近くなると手が小刻みに震え胸の奥がチクチク痛みだしてくる。
そんな時に望の「お兄ちゃん、明日も来てね」が聞こえてくる。そして、会社から逃げるように「里」に行き、いつもの席に座るのだった。
「真紀さんは、ずっとここでお店をやっているのですか」
「いいえ、去年からよ。去年の、うーんいつからだったかな」
「夏。だって望、2月期から転校したんだもん」
「じゃあ、真紀さんは生まれはここじゃないのですね」
「いいえ。生まれも育ちもここなんだけど、ここから巣立って少し無理して遠くまで飛んで行って、疲れて帰って来たってとこかな」
いつものように明るく澄んだ声ではあるが真紀の顔は曇っていた。
「さあさあ、私の事より、もっと草薙さんの話しを聞かせてくれないですか。エリートサラリーマンなんてカッコいいわあ。ねえ、望」
「かっこいい。かっこいい。けどエリートサラリーマンって何?」
草薙は笑った。ここ数年心から笑った記憶がなかった。この店に通うようになったこの数日でこれまでの数年分を笑ったような気がしていた。
***
珍しく外回りの仕事があり、ちょうど昼時でもあったので草薙は店に寄ることにした。
昼に店をやっているか聞いたことはなかったが、この近辺の店はどこも昼には定食屋をやっている。昼はお客さんで混んでいるに違いない。それは嫌だが、女将さんの澄んだ声を聞けるのであれば、少しは我慢しようと思っていた。
けれど、もう馴染みとなっている通りの中に店はなかった。そこには資材が山積みに置かれていた。立ち入り禁止の札がぶら下がっている。
夕暮れ時と景色は変わって見えるかもしれないが店の場所を間違えるはずはない。
店があった筈の場所が工事現場となっている。草薙は工事現場を呆然と眺めていた。
ふいに草薙は声をかけられた。
「そこのあんた。あなたは毎日夕方にこの工事現場に通っているお兄さんだよね」
振り返ると、そこには一人の老人がいた。年の頃は60過ぎくらいの初老の男である。寒くないのであろうか、派手なアロハシャツを着ている。
「毎日工事現場に通っている?」
「そう、ここのところ、しょっちゅう工事現場に来てるよね」
この人の言っていることが草薙には全く分からなかった。
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