家族 -牡丹燈籠-
nobuotto
第1話 可愛い客引き
繁華街はサラリーマンで溢れていた。賑やかな通りから脇道へ、明かりが少ない通りからもっと少ない通りへと草薙は歩いて行った。
繁華街の賑わいも消えたところに、古い住宅の並びにポツンポツンと飲み屋が割り込んでいる寂れた通りがあった。
少女がその通りの中に立っていた。
夜とは言えないが既に薄暗いこんな時刻、こんな通りに少女がいたので草薙は思わず立ち止まってしまった。
少女も草薙の方をじっとみつめている。少女に惹かれるように、草薙は通りの中に入っていった。
「お兄ちゃん」
近くまで行くと少女が草薙に声をかけてきた。とても澄んだ明るい声であった。
もうすぐ春とはいえ、この季節には肌寒むそうな薄い緑色のワンピースを着ている。小さなお守りを首から下げていた。
「私に用ですか」
「お兄ちゃん、お腹すいてない?うちで食べていかない?」
「うちで?」
少女が草薙の手を握ろうとした。とっさに草薙は手を引っ込めた。
「ここが私の家。お母さんがこのお店やっているの」
少女は引っ込められた草薙の手を今度は離さないと言わんばかりに握り、そしてもう片方で目の前にある店を指さした。
「家庭料理 里」という店がそこにあった。
店と言っても板戸一枚の入り口の上に「家庭料理 里」という看板が下がっているだけである。注意してみないと両脇の古い家に埋もれて、素通りしてしまいそうな店であった。
とても地味で、草薙が嫌いな騒がしさを全く感じられなかった。
「ここにするかな。それにこの子が手を離してくれそうにもないし」
「ねえ、お兄ちゃん、いいでしょ」
「ああ、いいよ」
可愛い客引きさんに捕まってしまったと思いながら、草薙は少女に引かれるまま店の中に入った。
「里」は5,6人程度が座れるカウンターとその向かいの座敷に3つのテーブルがあるこじんまりとした店であった。
少女は「お母さん、このお兄ちゃんお腹すいたんだって」とカウンターの中の女性に声をかけた。
「済みません。
女性の声も澄んでいた。この少女の声は母親ゆずりのようである。
「30半ばくらいか。いやこの少女の母であるなら40は過ぎているのかもしれない」
どちらにしても、澄んだ声に似合う質素な美人だと草薙は思うのであった。
髪を束ねて白いシャツを着ているその人は、料理屋の女将というより、近所のスーパーで買い物をしている奥さんのような自然な雰囲気であった。
そして娘と同じように今の季節に合わない薄着であった。
「いえ、どこかで食事でもと思っていたので、ちょうど良かったです」
「はい、お兄ちゃんの席はここね」
草薙をカウンターの真ん中の席に座らせ、その横に望が座った。
「お母さん、私もご飯」
「だめよ、お客さんの邪魔になるから家に上がりなさい」
「いやよ。一人じゃ寂しいもの。お兄ちゃんいいよね。いいよね」
望は草薙の腕に抱きついて甘えた声で言ってくる。
「私も一人で食べるのも寂しいですし。望ちゃんって言うんだね。お兄さんと一緒に食べようか」
「やった。お兄ちゃん、やっぱり私の直感大当たり、絶対に優しい人だと思ってたんだ」
草薙は思わず微笑んでしまった。
「全くこの子ったら。お客さん済みません。それじゃ、望、静かにしてるのよ」
「お飲みものは何にしますか」
「お酒は苦手なので、烏龍茶を下さい。それから…」
店を見渡したがメニューがない。メニューもなければ草薙以外に客もいなかった。
「済みません、メニューはないのでしょうか?それから他のお客さんもいないし、今日はお休みだったのでは」
「いえいえ。うちはあまり一見さんの客はいらっしゃらなくて。その日に仕入れた材料でお客さんの好みに合わせて料理をお出しするんですよ。みなさんが来るのは、仕事が終わってから。もっと遅くなってからで、今時分はこうやって母娘で食事しながらお客さんが来るのを待ってるんです」
望は草薙と女将の間に身を乗り出して言った。
「お母さんはね、お客さんの顔をみただけで、何が食べたいかピタリとあてちゃうんだから」
「まあ、望ったら。そんな神様みたいなことはできませんけどね。何かお嫌いなものとかありますか」
「いや、食べる方はなんでも大丈夫です」
一人でゆっくりしたかった草薙には他に客がいないことは好都合であった。
小鉢で幾皿かの料理がでてきた。確かに草薙の嗜好をわかっているような料理ばかりであった。
草薙の横に座ってから望は、ずっと話していた。
転校したばかりだけど、みんな優しくてすぐに友達ができたこと。けれど田舎の学校と違って東京の学校は勉強がとても早く進んでいくので大変であること。朝学校に行く時にあった猫に帰りにもあったこと。
望はとても話し好きらしい。食事の合間というより、話す合間に食事をする。
望の母は、明るく笑い、草薙はにこにこしながら聞いていた。
望と出会って今日初めて「里」に来たのであるが、もう何度もここに座って望の話しを聞いているような気が草薙はした。
料理を食べ終わる頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「それでは、他にお客さんも来る時間でしょうから、私はこれで帰ります」
帰り際に望は手を一杯に振って草薙に言った。
「お兄ちゃん、明日も来てね」
とても澄んだ声であった。
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