月が綺麗ですね
苛立った心のままに話せば、またこいつの思うつぼだろう。俺は感情を心にとどめたまま黙っていた。
向こうから話し始めることはなかった。
静かになると、いろいろ思い出してしまう。こいつとしゃべるのは嫌いだが、無心になれないでいるのも嫌だった。
その日は雲も無く、丸い月が出ていた。
季節は秋。
イベントなんて興味もない家族が、今日だけは楽しそうに話していた。両親と祖父は縁側でお茶を飲んでいた。その話に興味の無い俺はタロウとじゃれていた。弟は俺と違って、黙ってその話を聞いていた。
いつも黙っているから、兄の俺でも何を考えているのか分からない。そんな弟が唯一反応することは、この手のイベントのときだけだった。
月の姿を見て、昔の人はウサギが餅をついている姿、カニの姿、女の人の姿だとか言っていたらしい。月はいつの時代も注目されていた。
祖父はそうやって話し始めた。祖父は昔、文学者として月について研究していた。その影響で父は子どものころに宇宙飛行士を夢見てたそうだ。そのおかげか、俺の家ではよく月の話が出た。
誕生日や盆、正月までも俺の家では日常と変わらないのに、十五夜だけは違った。その日だけは、家族全員がそろって縁側でおしゃべりをするのだ。
月の何が面白いのか。夜空に光って綺麗だとは思う。でもそれだけだろう。それ以上でもそれ以下でもない。何を毎年そんなにも話すことがあるのだろうか。正直この時間は僕にとってつまらない時間でしかなかった。
「月に関する言葉で、日本で一番有名なのは『月が綺麗ですね』だろう」
それは夏目漱石の言葉だと言われている。『 I love you. 』という言葉を日本語に訳すときに、日本人の奥ゆかしさを表現したものだった。
彼がなぜ月を例えに使ったのか。それは、誰もが月が綺麗だと思うからだろう。「月が綺麗だ。そしてそれを見るあなたのことが――」日本人が大好きな、暗に秘めた言葉を伝えるにはぴったりの物だった。
この話は祖父の定番だった。毎年のように聞かされてきた。そして毎年、この後続くのは――
「月が綺麗ですね」
父の声。
「月が綺麗ですね」
それに応える母。
「月が綺麗ですね」
二人に対して送る弟の言葉。
「月が綺麗ですね」
最後に聞こえるのは、祖父の家族への言葉。
そして向けられる俺への目線。俺はタロウに顔を埋めてそれをやり過ごした。毎年のことだ。みんなもそれを分かってやっていた。
少ししたらまた普通に話し始める。俺はその掛け合いに参加するつもりはなかった。
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