ロージー

 岩本さんから連絡があったのはそれから数日後だった。でもそれは白々しい営業口調の、そのくせうずうずを隠し切れないようないつもの電話ではなかった。


 ぼくはその日サンルームの蔦を除去することに決めて、朝から作業に取り掛かっていた。はじめぼくは蔦を完全に舐めていて、事務用の紙切鋏で茎を切断しようとしたのだけれど、茎は木化していて思いのほか硬く、ぜんぜん歯が立たなかった。仕方なくホームセンターで剪定鋏を買ってきて、主な茎を切るところまではいったのだけれどそれだけではダメで、細い根が家の外壁にへばりついていて、この時点まで二時間以上掛かっているのに見た感じははじめと全く変わっていなくて、くじけそうになってしまった。外壁は板張りで、経年劣化した表面は木目に沿ってボコボコに凹んでいて、そこへ根っこが入り込んでぎゅっとしがみついているものだから手ごわくて、それをバリバリっと剥がしていくのは最初だけちょっと爽快だったけれどすぐに疲れてスピードダウンし、終わる頃には汗だくになっていた。


 空き地の雑草に座り込み、裸になったサンルームを見上げると、もとはモスグリーンに塗られていた窓枠も剥げて白茶け、カラスは黄ばみ、全体にみすぼらしく、追いはぎにあったみたいでちょっと可哀想なくらいだった。それでも「仕事をした」という充実感を感じ、こんなのは偽りの充実感だと思いながらも心地よくぐったりして、しばらくサンルームを眺めていた。陽に照らされて地面からはむんむんと青臭いにおいが立ち上った。積み上げた蔦の残骸からも、ぼくの指先からも同じにおいがした。


 そうしていると通りからプッと短く車のクラクション鳴って、それではっとなり、途端に脱力した時間を邪魔されたみたいな気がしているともう一度、今度はプーッと長くなった。ぼくはほとんど直感的に、これは岩本さんが呼んでいるのかもしれない、と思い、家を回って通り側に出た。すると不動産屋の軽ではなくて鮮やかなスカイブルーのライトバンがアイドリングしていて、ぼくを見つけると丸い目玉をぴかぴかっと光らせた。

 ぼくが眩しくて怯んでいると、両側の窓からにょきっとふたつの頭が出て、それぞれ

「おはよー」

「迎えに来たわよお」

 と叫んだ。

「どうしたの、これ」

 とぼくがびっくりしていると、

「借りたのよ。それより早く仕度して。五時間も掛かるんだから」

「そうそう、早く」

 と急かされてしまった。なんだかよくわからないまま(といってもこの間水村さんが言っていたツリーハウスに行くんだろうと予想がついたから)、着替えを取りに玄関を入ろうとして、はっと立ち止まった。郵便受けにB4の封筒が突っ込まれているのを見つけたからだった。

「あっ」

 手にとって見ると差出人が岩本さんになっていたものだから思わず声を出してしまうと、

「そんなのいいから、早く」

 とまたニッキに急かされて、とりあえず家に駆け込んだけれどまだ岩本さんの名前から目を離せなくて、しばらく立ち尽くしてしまった。


 それでも急な用なら電話してくるだろうから旅行から帰ってから読めばいいと思って靴入れのとことに封筒を置いて、何泊するか分からないので三日分の着替えに歯ブラシセットに、ついでにこれも、と急いで準備したらまた大汗をかいてしまって、せめてシャワーを浴びてから出発したかったけれどそんなことを言ったら二人にぶっ飛ばされそうなのですぐに出ようとして、でもやっぱり封筒のところで立ち止まってしまった。


 少し迷って、ぼくは封筒を開けた。手紙の大きさではないから何か別なものだろうとは思っていたけれど、それと一緒に何かしらの説明書きや挨拶文が入っていると予想していたから、出てきたのが何の変哲もないCD-R一枚だったと分かって少々拍子抜けしそうになった。しかし中身を見るまで「何の変哲もない」などと言えないのがCD-Rのようなメディアの性質だった。


 玄関の磨りガラスの向こうでは、水色のライトバンがブルンブルンとエンジン音を立てていたが、ぼくは思い切って部屋に戻り、水村さんがくれたノートパソコンを起動させた。やっとOSが立ち上がってディスクを入れると、中身は図形の組み合わせで作品を作るデザインソフトのファイルだった。幸い水村さんのパソコンにはそれがインストールされていて、ファイルを開くことができる。クリック音が鳴る。

「これって……」

 間取り図だった。白地に黒で味気のない、しかしぼくには馴染みのある、この部屋の間取り図だった。しかし現実とは違っている部分もある。風呂場がなくて、二階への階段が作られている。間取り図は一枚ではなくて、何枚ものレイヤーが積層していた。ぼくは次のレイヤーを表示させる。最初のレイヤーに比べ、二階の間取り図はぐっと複雑になっていた。横に伸びる一本の廊下からゲジゲジの脚みたいにたくさんの通路が枝分かれし、その先にはそれぞれ1DKから2DKくらいの部屋が実の生るようにくっついていた。次の階はさらにごちゃっとした。縮尺も変わり、小さな街のように通路が走り、一人暮らしに最適な、しかしどこか個性的な光を放つ無数の部屋が画面いっぱいに散らばっていた。次の階はもっとすごい。

 実現不可能な間取り図であることは一目瞭然だったけれど、それよりもぼくをどきどきさせたのは、たくさんの部屋のうちいくつかが、確かに見覚えのあるものだったことだった。

「どうやらやり方を間違えちゃったみたいなんですよね」

 始めて会った日、車の中で真っ白のページを見せながら、岩本さんはそう言った。無数の魅力的な部屋のデータから、ひとつの究極の間取り図を作ることはできなかった。それで岩本さんが考え出したのがこのやり方なのだろうか。画面には途方もない間取り図が表示されていた。最後はもう血管みたいになった。

 ぼくはその間取り図の(もはや間取り図と読んでいいのかどうかも分からなかったけれど)圧倒的なインパクトで、頭が半分痺れたようになってしまった。そして何気なく、最初のレイヤーに戻ってしばらくそれを見つめていた。そして間取り図自体のことよりも、なぜ岩本さんはこれを直接見せるのではなく送ってきたのだろう、という事の方に注意が向き始めた瞬間、ぼくはまたぐいっと間取り図に連れ戻された。


 もうひとつあった。小さくて見落としていたけれど、サンルームの床のところにもうひとつ階段が付け足されている。こちらは階下へのものだ。見るとレイヤーももう一枚下に残っている。

 底知れない感じがした。少しだけ恐れ、しかし開かずには居られなかった。クリック。


 現れたのは長方形の倉庫みたいな部屋で、広さも十畳くらい、今度こそ本当に拍子抜けだと思ったのはぼくの早とちりで、その長方形の中ほどには破線で小さな円形が四つ描かれ、ラフに並んでいた。「天窓」の表示がある。ぼくは思わず立ち上がり、玄関の戸を開けた。

「おそーい」

 の合唱は無視して、飛び石ならぬ「飛びガラス」を見る。しゃがんでじっと覗き込んでもみた。ガラスは相変わらず厚く、濁っていて、その先に何かがあることをうかがわせる気配はなかった。

 ぼくはこんどは六畳に戻って、蔦を取り払ってずいぶん明るくなったサンルームのタイル床を見た。パステルカラーのタイルの一つ一つが、つやつやと光を放っていた。うちにはハンマーもバールもなくて、だからぼくはじっとそこを見ていたのだけれど、しびれを切らしたニッキがずかずかと入ってきて、

「何やってんのよー」

 と連行されてしまった。


「こんな急がせるんならあらかじめ言っておいてくれればよかったのにさあ」

 とぼくが後部座席から言うと、助手席からニッキが振り返って、

「だってこの方がミステリーツアーらしくていいでしょ?」

 と言った。

「ミステリーツアーって? いや、ミステリーツアーは知ってるけど……」

「行き先は秘密なんだって。ねー」

 と話を振られた水村さんは

「そうそう」

 と横顔で笑っただけで、ぼくの中には共犯的な感情が芽生えそうになったけれど、ぼくが思っている通りこの車がツリーハウスに向かっているのかどうかは分からなかった。

 ハンドルを握っている水村さんは「首都高って高速道路?」とか言い出す始末だったけれど、ぼくは免許を取ってから四年間一度も運転していなかったし、ニッキは生まれてこの方運転したいと思ったことすらなく、水村さんに任せるしかなかった。それでも高速に乗ってしまってからは車も少なく快適なドライブになった。

 ニッキが

「コンビニでお菓子買ってくればよかった」

 と文句を言い出したので、ぼくはすかさず

「これもってきたよ」

 と百円ショップの袋を出してやった。でも

「気が利くねえ」

 とニッキが袋をひっくり返してじゃらじゃら出てきたのは極彩色のイタリアのお菓子たちで、ニッキと水村さんは

「おええっ」

 と声を揃えた。

「こんなネタ仕込んでたから遅かったのね」

「ネタって言うか、そもそも水村さんが買ってきたんじゃないですか。それに……」

 遅れたのはそのせいではなくて、と反論しようとしたけれど、そこでニッキが

「あ、私この曲すきっ」

 と今まで低く流れていたカーラジオのボリュームをぐいっと上げた。彼女の好きなロックバンドの曲が大音量で流れ出して、水村さんはぼくに何か言ったけれど聞き取れなかった。


 高架になっている首都高からは、東京の街を遠くまで見通すことができた。雑居ビルのタイルが、住宅街の屋根瓦が、環状八号線を流れるトラックの銀色の荷台が、午後の陽光を反射してびかびかと光っている。近くのビルは目にも留まらない速さで、遠くの屋根は悠然と後方に流れていく。ずっと遠くのガスで煙った中に、うっすらと電波塔が見える。東京タワーなのかどうか、よくわからない。でもそんな眺望は一瞬で、すぐに防音壁で遮られてしまった。


 うちの地下には本当に地下室があるのかもしれない、とぼくは思っていた。そこは暗い。想像の中で、ぼくはそこに立っている。濁った四枚の天窓からはぼんやりと光が落ちている。次の瞬間、すうっと部屋の明度が落ち、あれっと思った時にはもう、四本のばら色の光の柱が立っている。地上で「わっ」となったのだ、と思う。ぼくは柱の中に進み入る。見上げると顔にじんわりと熱が伝わってくる気がする。外が夕方なのか、朝方なのか判断がつかない。

 相変わらずカーラジオは全開だった。バンドのボーカリストよりも一オクターブ高い声で、ニッキが曲にあわせて歌っている。

「Life is not always rosy ……」

 人生は、いつもばら色ではないけれど。ニッキ、とぼくは小さく言ってみた。聞こえるはずがないと思っていたのに、ニッキは歌うのをやめてぼくを見た。車が大きなカーブに差し掛かって、ぼくらは揃って身体を大きく右に傾けた。

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ロージー ふぐりたつお @fugtat

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