それ以外の時間
それからもニッキと水村さんはぼくの家に通ってきては漫画を描いていたけれど、イベントの前日に製本をしに来たのを最後にしばらく顔を見せなかった。水村さんが来るようになって突然にぎやかになったボロ家はまた突然ひっそりとしてしまって、冷蔵庫の唸り声や夜中に柱がきしきし鳴る音が戻ってきた。
特にすることのない生活を続けていると、何かひとつでも予定が入ったらそれを心待ちにしてしまうように心がなっていて、ニッキたちが来ていたときはやはりそのことが朝起きたときから二人の顔を見るまでずっと頭にあった。少し先に目的地を決めて「よし、あそこまで行こう」と決めてしまってその地点ばかり見て歩くと、そこまでの道のりをあまり憶えていないものだけれど、それと同じ感じで、後で思い返すとにぎやかだった期間は一日のほとんどが三人で過ごす夜中で、それ以外の時間は全然なかったような気がする。
朝の時間をサンルームの段差に腰掛けてぼんやり過ごしているとき、ふっとあることに気がついて、「そりゃそうだよなあ」と一人で納得してしまった。
同じ場所に腰掛けて空き地を見ているのに、以前と比べてイチョウの樹が見えにくくなっているのだった。人間たちが眠っている間に樹が勝手に動いて、窓から見えない位置に移動しているわけではもちろんなくて、いつのまにかボロ家を覆う蔦が増殖というか成長してその占有面積を広げていたのだった。全く手入れをしていないのだからそれも当然だった。
近いうちに本当に蔦に覆われて、家だかなんだか分からなくなってしまうんじゃないか、なんて考えているぼくの頭の中では、蔦が見る間ににょきにょきと伸びだしてこの家を飲み込んでしまう想像上の宮崎アニメみたいな映像が展開していたけれど、それがきっかけになって思いがけない事を思い出してしまった。
ベランダで雪を待ったことを思うときに現れる、視点が上空から降って自分自身にクローズアップするあの映像には続きがあって、こんどは視点がぼくの眼球の奥に移動して、まぶたに挟まれたアーモンド形の冬空が見えている。その窓が目を意味しているとしたら縮尺が合わないのだけれど、その窓にはぼつぼつとぼた雪が落ちてきて、次第に視界が狭まり、ついには白く埋まってしまう。
一連のイメージのこの後半部分をぼくは長いこと思い出さなかった。でも、雪待ちのそわそわした感じよりも閉鎖されていく世界の安堵感に取り付かれてしまうとしたらきっと上手く生きていくことができないから、自然に脳が記憶の取捨選択をしてくれたのかも知れなかった。
こうしてひとつ思い出してしまうとその流れは止まらなくて、昔していたもうひとつの遊びのことが浮かんできた。その遊びもベランダのダンボールハウスと似たようなもので、単にこたつの中で丸くなるという猫みたいな遊びなのだけど、ぼくは当時それを「生まれる前ごっこ」と呼んでいたらしく、確かに昔のこたつの中は暖かで窮屈で赤い光に満ちていて、胎内の環境に似ているかもしれず、ぼくは「生まれる前ごっこ」をしながら本当に生まれる前の事を思い出していたのかも知れなかったけれど、今ではそのときの自分の頭の中を思い出すことも出来なくなっている。
こんなふうにイメージが繋がって、前に水村さんと話しているときに雪待ちのイメージが出てきて、そのせいでツリーハウスを作る気になったことにも、何となく納得が行く気がした。ベランダのダンボールもこたつの中もツリーハウスも蔦に絡まれたこの家も、ぼくには懐かしい安息の胎内世界そのものだったのかもしれない。
はじめて岩本さんにこの家を案内されたとき、ぼくはこれから始まるこの家での生活を思い浮かべて胸を躍らせたけれど、それは秋の晴れた日にサンルームで日向ぼっこをしたり、濡れ縁で昼寝をしている脇で野良猫も眠っていたり、アパートでは使えない石油ストーブの上でやかんのお湯が沸いていたり、という静的でドリーミーなものばかりで、そこに会社へ得かけていく自分や、友人が集まるような場面は含まれていなかった。
ぼくがこの家に強く惹かれたのはそういう閉じられた生活に憧れていたからかもしれないし、憧れがあったからこの家に静的なイメージを見出したのかも知れなかった。ずっとここに住むことはできない、と岩本さんは言った。ぼくはふと、岩本さんが雑居ビルの屋上で見せた、遠くを見るみたいな表情を思い出した。
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