あくび
付き合いだしてから一年くらいの間に起きたことを、ぼくもニッキもあまり憶えていなかった。努めて思い出さないようにしていたせいもあるかもしれないし、その時期のぼくたちがいつも罪悪感に沈んで、身をすくめるようにして生活していたからかもしれなかった。
だからぼくらの関係はそのはじめの方がひどくぼやけている。ぼくとニッキの性的な初体験はふたり同時だったと思うのだけど、そのときの事さえもよく憶えていない。そしてぼやけているのは凝視すれば目を傷めてしまいそうな一点があるからだった。
ニッキがぼくのことを好きだと告白したとき、ぼくは同じサークルの後輩の女の子と付き合い始めたばかりだった。だからニッキの告白は結果を期待できるようなものではないはずだったのだけれど、最終的にはぼくはニッキの方を選んでしまった。ひどく気まずい時期が過ぎて、ニッキにぼくを奪われ、ぼくに裏切られた女の子はサークルを去った。その後学内でも彼女に会うことはほとんどなかったけれど、消息だけは途絶え途絶えに聞こえてきた。彼女は一年の間に絵画で賞をとり、詐欺に遭い、自殺しようとして失敗したらしかった。
失恋したから自殺しようとしたとか、それがなければしなかったとか考えるのは合理的ではなかった。でもニッキもぼくも部外者を気取れる図々しさは持ち合わせていなかったし、実際に部外者ではなかった。
ぼくたちが楽しいときはいつも、彼女の影が心のどこかに落ちた。堪え性のない若者だったらつい破局してしまいそうな感情的な場面では、影はぼくらを抑制的にさせた。そうやって危ういバランスで二人がつりあっていた時代のことを、ニッキの言葉は想起させた。ぼくが緊張したのはそのためだった。
「キミの漫画が面白かったからだよ」
とニッキは言った。
「へ?」
昔の事を思い出して深刻な気分になっていたぼくは、情けない相槌を打ってしまった。
「この人すごい漫画描くなあって」
「そんなんで人を好きになるか? いや、まあなるかもしれないけど……」
「なるなる」
しかし、当時ぼくが描いていた漫画というのは、パンダの覆面をした家庭教師の物語とか、ドリル状の頭部と青緑色の肌を持つサラリーマンの話みたいなものばかりだったわけで、
「複雑だ……」
「だからね、私には今の君はちょっと残念だよ。何も作ってないのはさあ」
「……描いても昔みたいなのは描けないよ」
「どうして? 才能が枯れたとか言って?」
「かもな。あんなのが才能の産物だったとしたらだけど」
「でも私は先物買いしたつもりなんだから頑張ってもらわないと」
「お前見る目ないなあ」
「あるよ。君は色々とすごいよ」
「だといいんだけど」
「そうだもん」
「そうかよ」
「でももっと有望な投資先が見つかれば乗り換えるんじゃないの?」という苦しい冗談が危うく喉から飛び出そうになったけれど、その前にニッキが
「ぎゃっ」
っと飛び上がったので言わずに済んだ。
「なんだよ」
「ちょ、ちょ、ちょ、」
とか変な声を発しながらニッキは玄関の方を指差していた。起き上がってみるとふすまは開いたままになっていて、玄関の磨りガラスの引き戸が見えていたが、そこには髪の長い女のような人影が浮かび上がっていた。
「うおっ」
とぼくも思わずぎょっとしてしまったけれど、最初からそれは水村さんだということは分かっていた。
「ニッキ、水村さんだよ」
ニッキも本当は分かっていたようで、
「あ、やっぱりね」
なんて言っている。依然として外では強風がごうごうと鳴いていて、水村さんだと分かればはやくあけてあげればいいのだけれど、
「でも水村さん何してんのかな?」
「うーん、たぶん中の様子をなんとか伺おうとしてる……んだと思うけど……」
「ピンポン鳴らせばいいのにね」
「ああ。いや、でも停電だからならないんだ」
とか言いながらずっとガラスにへばりついている水村さんを観察してしまった。ぼくがさすがに悪い気がしてきて、
「そろそろあけてあげようか」
と立ち上がろうとしたら、ニッキが突然
「待って」
と引き止めて、ぼくの前に立ちふさがり、
「居留守使っちゃう?」
と目を覗き込んできた。いたずらめいた言い方だったけれど目だけはなんだか湿っぽくて、ぼくはなんだか懐かしいような気分になってしまい、本当に居留守を使ってしまおうかと考えそうになった。でもぼくが答えかねていると、
「嘘だよ」
とニッキは玄関を開けに行ってしまい、
「あれ? ニッキも来てたの? もしかしてすごくお邪魔だったんじゃ……小川君となにかしてたんじゃ」
「やめてよ」
「チョメチョメを」
「チョメチョメは古いよ」
とか言いながら部屋に入ってきて、水村さんはロウソクとその炎に照らされたぼくを見つけて大げさに
「ひいいっ」
と驚いたけれど、風のせいで長い髪が顔の半分を隠してしまった水村さんの方が、よっぽど幽霊みたいだった。
水村さんは漫画を描きに来たのだったけれど、ろうそくの明かりで描く訳にも行かず、諦めるしかなかった。
「やっぱりコピー本かなあ」
といいながら、もちろん残念なのだろうけれどあまり深刻さは見られなくて、ニッキにしても水村さんにしても結局自分の本を売るよりも他の人たちが描いた同作品のパロディ本たくさん手に入れるのがイベントのメインの目的のようで、とりあえず締め切りが延びて追い詰められた感がなくなったためか、イベントが近づいてきたのが純粋に嬉しくなってきたらしかった。
二人は寝るまでの間ずっと、他の参加者はどの少年とその少年をカップリングさせているかという話を
「あるある」
「それはない……いや、逆にあるか」
「キワモノ好きがいるからね」
と延々続けていた。風は止む気配がなくて、サンルームはふいごみたいに膨らんだり縮んだりした。イチョウの葉が遠くでジャラジャラ鳴って、二人のおしゃべりに重なっていた。
二枚の布団をくっつけて、ニッキを真ん中にして川の字で寝たのだけれど、ぼくは自分がすごく小さくなってしまい、金魚鉢の中でもがいていて、水面に出たいのだけどそこには厚い油膜が張っていて抜けることができず、苦しくてたまらなくなってきたところへ眩しい光が降り注ぐ、というような夢を見て、目覚めると寝相の悪いニッキがぼくに覆いかぶさるようになっていて、肉を食べる夢でも見ているのかぼくのシャツの肩のところをがぶがぶと噛んでいた。
「ったくこいつ……」
ニッキをごろんと横に転がして、シャツの涎でぬれた冷たい部分をつまんで持ち上げていると、部屋が妙に眩しいのに気づいた。サンルームを見るとカーテンが全開になっていて、逆光の中に人影が滲んでいた。
水村さんは
「仲が良いのねえ」
とでも言いたげないやらしい目つきを作ってぼくを見ていて、ぼくもいつの間にか見られていた気恥ずかしさから苦笑するしかなかった。
水村さんは蔦だらけの窓からまたイチョウの樹を見ていたみたいで、おきだして隣に行くと
「小川君、ツリーハウスに行こうよ」
「ええ、ああ……」
と眠い頭で相槌を打ちながら、ぼくは水村さんの言っていることがよくわからなかった。「行く」もなにもつりーハウスはまだ作り始めてもいなかった。ぼくはよくわからないまま、さっきの夢の中で光があふれたのは水村さんがカーテンを開けたせいだったのかもしれない、などと全然関係のないことを考えていたのだけれど、水村さんの話は
「ニッキと三人で、レンタカーでも借りてさあ」
となんだか具体性を帯び始めて、ぼくは慌てて
「ちょっと待って。ツリーハウスって?」
と聞き返してしまった。
「だからね、本当にあるのよ。福島の方に、大きなツリーハウスがたくさんあって、そこに泊まれるようになってるとこ」
「旅行に行くってことですか?」
「そうよ。何か問題でもあるの?」
「問題ってことはないですけど……」
ぼくが戸惑ったのは、水村さんとぼくが一緒に旅行に行くような間柄だろうかと考えたからだった。
水村さんはニッキの同僚でニッキはぼくの恋人で、じゃあぼくと水村さんは難だろうと考えてもよくわからなかった。今まで水村さんのような人が周囲にいたことがなかった。
ぼくの脳裏にはぼんやりと、そういえば昨日水村さんがニッキと一緒じゃなく一人でうちに来ていたことや、昼間の岩本さんの表情や、小学三年のときに転入してきた女の子を一目見て「保育園で一緒の組だったひとだ」と気づいたときのことなどが去来して、はっきりとしない何かがぼくの心の箱をぶうんと震わすのを感じ、その何かが次第に凝集して、最後にくっきりと像を結んだとき、体の中がわっとばら色になったような気がした。
「あの、水村さん」
とぼくは言った。
「え?」
「ぼくと水村さんって、その……あれですか?」
「何? もったいぶって」
もったいぶっているのでも、わざと言葉を濁しているのでもなくて、照れくさくてなかなか言い出せないのだった。
「だから、ほら」とぼくは赤面までしてようやく言い切った「友達、なんですかね」
水村さんにはそれが青天の霹靂だったみたいで、しぱらくあいた口がふさがっていなかったけれど、すぐに噴き出しそうな顔になり、でもそれはぐっとおさえて真面目な顔を作って、
「私はどっちでもいいけど」
と試すようにぼくを見た。
「どうする?」
布団ではちょうどニッキが起きたところで、ぼくと水村さんを眩しそうに見て、
「台風一過だあ」
と言い、特大のあくびをした。嵐はすっかり去ったようだった。
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