台風
午後から強い風が吹いて、干してあったTシャツが一枚どこかへ飛んでいってしまった。東北のどこかの万華鏡博物館で買ったもので、万華鏡を覗いたときのような模様がプリントしてある悪趣味なものだった。
夕方になっても風は治まらいどころか強くなる一方で、早いスパンで小雨がぱらついたり晴れ間が出たりする変な天気になった。台風が来るのかとテレビで確認しようと思ったら電源が入らなかった。どこかで電線が切れでもしたらしかった。
用心して雨戸を閉めると真っ暗になってしまって、ぼくは蔦に守ってもらうしかないサンルームで、古いガラスがガタガタ震えるのを見ていた。時折落ちてくる雨粒がぱたぱたぱたと蔦の葉を打った。ぼくが座っている位置からはイチョウの樹は見えなかったけれど、ここがイチョウの樹のツリーハウスの中だったら、とぼくは想像した。扇形の葉がみんなざわざわ言って、きっと騒がしいだろう。頑丈なように見えて太い幹もゆっくりと揺れているだろう。
深夜に突然、盛大に雨戸のドスンドスンとなる音がして、瓦でもどこからか飛ばされてきたかとサンルームから覗いてみると、正体はニッキだった。短い髪とスカートが強風で逆立ち巻き上がるのを必死に手で押さえながら、半泣きみたいな顔で猛然と雨戸をたたいているのだった。
「どうしたどうした」
急いで戸をあけてやると、ニッキは
「ぬおおー」
と唸りながら畳にばったりと倒れこんだ。その間にも風が舞い込んで壁のカレンダーがばっさと揺れ、急いで雨戸を閉める。
「すごかったあ」
とニッキは乱れた髪を直すのにテレビに映りこんだ自分を見ようとして、
「あれ? なんか暗くない?」
と今頃気がついた。
「停電なんだ」
「そうなの? 不思議だね」
「何が」
「だって街灯もちゃんとついてたし」
「この家の周辺もついてた?」
「え……改めて言われると自信ないけど……すごい風だったし」
「そうだろ?」と言いかけて、ぼくは「いや待てよ」と思い直した。道の電柱の変圧器から頼りない細い電線がこの家までだらしなくたわんで伸びている様子を思い出したからだった。
「ちょっと待ってて」
と勢い込んで玄関を出た。突風で砂粒が吹きつけるのに目を細めながら見上げると、我が家に電源を供給していた細い電線はさながら吹流しのように電柱から垂れ下がり、風にたなびいていた。
「やっぱりそうだ。うちだけ停電だよ、これ。こういうときどこに連絡するんだっけ。東京電力?」
戻るなりそうまくし立てるぼくに、ニッキは
「いいよいいよ、そんなのは明日で」
と落ち着き払っているというかむしろ楽しそうで、
「ロウソクはあ?」
と台所の方へ行ってしまった。ぼくもなぜかにやにやしながら
「下の棚」
などと答え、やはりちょっとワクワクしているのだった。
ちゃぶ台にロウソクを立てて、といってもニッキがはしゃいで十本も立ててしまったせいでちょっと儀式めいてしまったけれど、それでもこんなことは子供のとき以来で、ぼくもニッキも漂う高揚感に満足していた。
「そういえば今日は水村さんは?」
「水村さんね、なんか変な仕事受けちゃったみたいで漫画どころじゃないみたい」
「締め切り明日でしょ?」
「っていうかもう今日だよ。でも私もこの状態じゃ描けないし、コピー本になるかなあ」
「残念だな」
「まあね」
コピー本というのは製本所に頼むのではなくて自分で原稿をコピーしてホッチキスで綴じて本にするやり方で、見栄えも悪いし売れにくいが、その代わりイベント当日までに完成すればいいから締め切りは延びる。
「なら俺の小説も間に合うかもな」
「えっ、本当に書くの?」
「書けって言っといて驚くなよ」
もちろんぼくは本気でホモ小説を書く気になったわけではなかった。ろうそくの魔力と話の流れでぽっと口をついて出たのだけれど、ニッキの方ではもっと別の受け取り方をしたのかもしれなかった。
ぼくとニッキはロウソクからは離れて、仰向けに並んで天井を見上げていた。だからぼくが顔を横に向けてニッキを見ても彼女のあごから鼻、額にかけての横顔の輪郭線が、炎に照らされた産毛のせいでオレンジに光って見えるだけだった。
その顔が急にこちらを見た。なんかまずいな、とぼくは思う。
「付き合いだした頃にい……」
とニッキが言い出したので、ぼくはどきりとしてしまった。ニッキの方でも何かの意志が働いて、意識的に出てきた言葉に違いなかった。
「どうして俺を好きになったのって訊かれて、私答えなかったけど」
「うん」
答えながらぼくは天井に目を移した。蛍光灯の影が小刻みに揺れている。ニッキはどこへ行こうとしているんだろ、と思う。意識の底で何かがぐつぐつと泡立つ音が聞こえる気がした。
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