屋上


 駅前でぼくが車に乗り込んだときから、岩本さんはうれしそうにしていた。

「今回のはちょっと、かなり個性的ですから」

 いつもはぼくが期待でわくわくしていて、岩本さんはもったいぶった感じで、それがまた心地良い関係だったりもしたのだけど、とにかく今日の岩本さんは駅前から物件に着くまでずっとその部屋がすごいという事を話していたが、ぜんぜん要領を得なかった。

「小川さんの家から大通りにでるとき、いい感じのものが見えませんか?」

 とか、そんなことを言われてもよくわからなかったけれど、車をコインパークに止めて大通りに出て、

「あそこですよ」

 と岩本さんが上を指差すと、ぼくは思わず

「ああ、ここ!」

 と手を打ってしまった。


 運動公園の遊歩道を抜けて大通りに出ると、通り沿いに並ぶ雑居ビル群のなかで一際目を引くビルがある。一階に学習塾、二階から五階までカラオケ屋、六階と七階にはぱっと見はなんだか分からない事務所が入った、ありふれた雑居ビルなのだけれど、もうすこし視線を上に向けるとその異様さに気がつく。ビルの屋上に家が建っているのだ。無論本格的なつくりの家ではなく、ホームセンターに展示してあるようなログハウス風の建物だったが、風にカーテンが揺れ、夜は明かりが灯り、洗濯物を取り込む人影さえ見かけるので、やはりそれは間違いなく住居なのだとわかった。今回岩本さんが案内してくれるのはその部屋だった。


 その雑居ビルにエレベーターはなかった。だから暗い階段を塾やらカラオケ屋やらのエントランスを横目に長いこと上っていかなければならなくて、それだけでもこの物件に借り手がつかない理由になりそうだったけれど、岩本さんが「さあさあ」と屋上へのドアを開けてくれると、そんな不満も掻き消えた。


 薄暗く静かな階段を出ると、運動公園の方角から聞こえる蝉の声と夏の日差しがどっと降ってきた。そのせいで一瞬白く飛んだ視界がゆっくり戻ってくると、これぞ関東平野、という景色が目に飛び込んできた。

「向こうが池袋で、あっちが新宿ですね」

「へえ……」

 とぼくは見入ってしまった。七階建てでも体感としては結構な高さで、確かに池袋の街まで見渡すことが出来た。

「あっでも、新宿の方はよく見えないですねえ、ガスが出て」

 と岩本さんが都心の方ばかり見ているのに相槌を打ちながら、ぼくは比較的近くの住宅街を見下ろしていた。しばらく視線を彷徨わせて、すぐにぼくの家をみつける。裏の家の植え込みの影から、例のイチョウの大木が突き出して見える。


 ぼくはふと、ぼくやニッキや水村さんがさっきまでその家にいて、漫画を描いたりおしゃべりしたりしていたというのがすごく不思議というか、現実離れしたイメージとして浮かんでくるのを感じた。ぼくが寝ている間に水村さんが起きてニッキが起きて、好き勝手に飯を食って家を出て、駅前商店街を通って会社に出かけていくのを、このビルの屋上から眺めていた人はいないだろうけれど、いてもいなくても同じだという気がした。ぼくはふと思いついて、

「練馬はあっちですか?」

 と岩本さんに訊いた。

「あ、えーっと、そうですねえ……」

 と岩本さんは目を細めるようにしてぼくの指差した方を見て、なんだか急に気が抜けたみたいな声で答えた。

「ああ、あっちが練馬で合ってます。……それにしても小さな街ですね」

 確かに池袋と比べれば、練馬の街はずいぶんと控えめだった。そのうちのどこかのビルで、ニッキや水村さんは今も仕事をしているはずだった。


 家まで送ってもらって車から降りるとき、ぼくはふっと思い出して切り出してみた。

「あっそうだ。仮に、もしも、って話なんですけど、あのイチョウの樹に……」

 と言ってる間に岩本さんも車から降りてきて

「あれ? こんな樹なんてありましたっけ?」

 なんて言いながら樹の方へ歩き出して、追っていったぼくと二人で大木を見上げる形になった。イチョウの樹に蝉がいるのは確かでかなり近くで泣き声が響いていたけれど、生い茂る派で姿は見えなかった。

「あっ、で、なんでしたっけ?」

「いや、この樹にもし、ツリーハウスを作るとしたらって話で……」

 そこまで言ってぼくは、その続きに自分が何を言うのか、分からなくなってしまったような気がした。「岩本さんならどんな間取りにします?」と訊いてもいいし「大家さんは許してくれそうですかね? 岩本さん交渉してくれます?」と今訊かなければいけないような気もした。

 それで迷って自分の言葉が宙ぶらりんになっているところへ岩本さんが

「ところで」

 といいだして、その話は流れてしまったけれど、岩本さんの話のほうがぼくをはっとさせた。

「この家」

 と岩本さんは蔦に包まれたボロ家を見た。ぼくもつられて見たけれど、イチョウの木の側から見る家の姿はあまり見慣れていないせいか、ちょっとよそよそしいみたいだった。

「追い出されたら、どうします?」

「えっ。追い出されるんですか、俺」

「いやいや、仮定の話ですけど」

「よかった。まあでもそうなったら、また岩本さんがいい物件紹介してくださいよ。っていうか本当に追い出されないですよね? 俺もう半年も無職なんですけど……」

「まあ、今のところは平気です。小川さんだって次の更新手続きのときまでフラフラしてるつもりじゃないんでしょ」

 岩本さんが笑顔でそう聞いてくるから、ぼくは

「まあ、そうですね……」

 と答えるしかなかったが、そこから思考が仕事のことに飛んで、生きていくためには無益な労働をこの先何十年も続けなければならない、その対価として金や、時には充実感みたいなものを得る瞬間もあるだろうけれどそんな充実感はまやかしの偽物で本当の充実ではない、でも知識も能力もない自分はそれを続けていくしかない、ああ嫌だ嫌だ、というようなことで頭がいっぱいになってしまったが、岩本さんの話はもっと別の性質のもので、

「それでも、この先何年もという事になると、住み続けられるか分からないですけど。こんな貸し方は効率悪いでしょう。立地もいいし、このボロを潰してファミリー向けの三階建てでも新築すれば……」

 岩本さんはそんな話をだらだらと続けたけれど、内容はぼくにも分かりきったことだったし、何よりぜんぜん岩本さんらしくなかった。いちばん初めの、追い出されたらまた岩本さんに味のある物件を紹介してもらえばいい、というところですでに終わっている話でもあった。自分でもそれに気がついたのか、岩本さんは

「いや、なんかすいませんね」

 と後頭部を掻いた。

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