岩本さん
翌朝目が覚めると二人とももう出かけた後で、卵の焦げたにおいをたどって台所に行ってみると食器やらフライパンやらが使ったまま流しに突っ込んであった。冷蔵庫を覗くと人が食べられそうなものはあらかた食べつくされている。
片付ける気も起きなくて、換気扇だけ回して、サンルームの段差に腰掛けてしばらくぼうっとしていたが、ごうごう鳴る換気扇の音にまぎれてケータイが鳴っているのに気づいて、慌てて液晶画面を見ると知らない番号だったけれど採用通知かもしれないと思ってとりあえず出てみた。
「もしもし?」
「あっ、あのお、お、小川様の携帯電話でよろしかったでしょうか」
吃音りぎみの男の声が聞こえてきて、思わず肩の力が抜けてしまった。知らない番号ではなくて、登録しないで忘れていただけだった。
「岩本さん! 久しぶりじゃないですか!」
少々大げさに親しげな声を出す。仕事場にいる岩本さんが電話の向こうで眉をひそめて周囲を気にするのが目に浮かぶようだった。
「あっ、え、えーとですね、Nハウジングの岩本と申しますけれども、小川様の方でお部屋の方はもう見つかりましたでしょうか。ただいまですね、い、いくつかご紹介できる物件がございますが……」
岩本さんはあくまで営業トークを貫くつもりで、それはぼくと岩本さんだけに通じる一種の冗談だった。ぼくはその可笑しさににやつきながら、
「今日は会社の車で迎えに来てくださいよ」
とふざけて言ってみた。岩本さんは一瞬戸惑ったように黙ったが、すぐに営業トークを再開した。
「それ、それではですね、駅前までお迎えに上がりますので、少々お待ちいただけますでしょうか」
「えっ。本当にいいんですか?」
と聞き返したときには岩本さんはもう
「では失礼致します」
と電話を切ってしまっていた。
「駅前」とはいっても岩本さんが勤める不動産屋はうちの最寄り駅より四駅も下ったところだったけれど、駅前商店街の入り口のところで待っていると、岩本さんは本当に迎えに来てくれた。
Nハウジングと社名の入った軽自動車が停まって窓が開き、苦笑いの岩本さんが
「ちょ、ちょっともう、ここ今回だけですよ」
と顔を出した。岩本さんはぼくが今の借家を借りたときの担当で、ふつうそういう人と何度も会ったりしないものだけれど、ぼくと岩本さんは不思議な縁があって妙な交流が続いている。というよりは、岩本さんがぼくの担当になったのが不思議な縁だったというべきか。
岩本さんは吃音りを気にしているし、だから接客業は本来得意としていない、というか苦痛でしかないようで、そのストレスのせいでか坊主頭の前頭部は無残に禿げ上がってしまっていた。それなのに不動産屋の営業なんかをやっているのはひとえに間取り図マニアだからなのだった。
ぼくがNハウジングを初めて訪ねたのは、大手の仲介業者を散々見て回った後だった。だから岩本さんが吃音りながらありきたりな1Kの間取り図を次々に奥から出してきたとき、ぼくはそのどれもが見飽きたものに見えて、ついいらついた口調で言ってしまったのだった。
「もっとこう、まともな部屋はないんですかねえ」
その瞬間、岩本さんはムッとした様子も見せず、逆に目を輝かせ、声をひそめてこうぼくに耳打ちした。
「お、お客さん、つまり、まともじゃないお部屋をお探しなんですね」
ありとあらゆる間取り図の中から、ちょっと変わった間取りを探し出すのが岩本さんの趣味だった。大手の工務店がノウハウを凝縮して効率よく作ったようなアパートは全然ダメで、大家さんの自宅を増築したタイプのアパートとか、一階に店舗の入ったコンクリのビルなどにユニークな間取りは多い。道の角に建つマンションにも変な角度を持った部屋があったりするけれど、その多く岩本さん的にはNGだった。そこはやはりプロで、一風変わっていながらも住みやすさを犠牲にしない間取りだけが岩本さんの眼鏡に適った。
「絶対に気に入ると思いますよ」
そう受けあう岩本さんにあのボロ家まで案内される道すがら、岩本さんの変な部屋探しの話を聞きながら、ぼくの胸は躍った。ぼくがあまり熱心に聞くので興が乗ってきたのか、岩本さんはわざわざ途中で車を止めてかばんからノートパソコンを取り出し、秘密のファイルとやらを見せてくれた。
「あの、これはですね、ぼくが今までに見かけた面白い間取りを全部データとしてストックしたものなんですよ」
岩本さんがクリックして画面上のページをめくるごとに、賃貸情報誌などではなかなかお目にかかれない見慣れない風貌をした間取り図が次から次から現れた。
一枚一枚の間取り図はそれぞれ個性的で自己主張が強くばらばらなのに、その羅列の中にはある種の秩序が確かに存在しているように見えた。それはもしかすると間取りたちの、住居としての誇りを捨てまいという意思の力かもしれなかった。ぼくはその気高さに息を飲んだ。
「実際、これらの物件のうち半分以上は人が住んでるんですよ、羨ましいです。それに、残りの半分のうちそのまた半分は、もう存在しません。まともな部屋じゃないとやっていけない時代なんです」
岩本さんはそう言った。
「まだあるんですよ、もうひとつお見せしたいものが、こちらになるんですけども……」
そこで岩本さんは間を置いて、ぼくの顔を見た。といっても岩本さんは視線恐怖症でもあったから、見ているのはぼくのあごの辺りだったけれど。
「お、小川さんさんは自分で間取り図を書いてみたいと思ったことはないですか?]
「ありますよ。というか描いたことありますよ、引っ越すんならこんな部屋がいいなあ、とか」
「やっぱり。それで、そうでした?」
「どうって……」
「うまく描けました? 理想の部屋が」
「ええ……いや」
確かに描いたことはあるはずだった。机に紙を広げてボールペンでまずはメインの六畳間を描いて、水回りのレイアウトを考えて……とやった憶えはあるのだけれど、しかしその描画作業がどのようにして終えられたかについては、全く記憶にないのだった。
「どうでしょうね……よく憶えてないんですけど」
「それはですね、きっとうまくいかなかったって事なんですよ。ゼロから何かを作ろうって言うのは意外に難しいんです」
「はあ」
でも、と岩本さんは言った。
「でも、その、今お見せしたような、データの蓄積があったとしたらどうだと思います? ぼくはトライしてみました。描いていて面白いのはやはり単身者向けの物件です、だいたい1Kから2DKくらいでしょうか。三十平米以下、家賃も高くなりすぎない設定で、変で、かつ魅力的な間取り……それも現在のぼくに考えられる究極の間取りです。データを参考に、それを導き出そうと」
「完成したんですか?」
「まあ、見てください」
岩本さんは新しいファイルを開いた。その内容が画面に表示されて、ぼくは思わずめをぱちぱちさせてしまった。
「あの……これ、真っ白ですよね」
岩本さんは「エヘヘ」と苦笑いをした。
「うーん、そうなんですよ。これが難しくて。全然描けないんですよ。箇条書きで必須条件を書き出したりは出来るんですけど、間取り図に落としてみるとまったくしっくりこない。どうやらやり方を間違えちゃったみたいなんですよね」
熱を帯びてきた岩本さんの言うことが、半分はわかって半分はごまかされたような気がした。
「あっ、あの、それで」
岩本さんは話が大幅に脱線していたのに気づいて真っ白のファイルを閉じ、ひらきっぱなしだった先程のデータ集がまた現れた。
「この物件を見てもらっていいですか」
岩本さんがページをめくり、次の間取り図が出てくる。比較的控えめな、しかし個性的という意味では十分に個性的な、2Kの間取り図だった。
正方形の四畳半の右に六畳間が寄り添い、四畳半の下に玄関と和式便所、六畳の下に台所と風呂の合わさった横長の長方形がぶら下がり、そして六畳の上にはこの間取り図のアクセントになっている半円形がちょこんと腰掛けるように乗っていた。
「これはですね、サンルームになっているんです。きっと気に入られると思いますよ。これから向かうのがこの家です」
その日のうちに契約が済んでしまってからも、岩本さんは気に入った間取りの空き部屋が出る度にぼくを呼び出しては車で現地を店に連れて行ってくれた。もちろん岩本さんはぼくに引っ越して欲しくて営業活動をしているわけではなくて、同僚にも理解されない趣味の話を思う存分ぶちまける相手を見つけてはしゃいでいるという感じだった。岩本さんに案内される部屋はどれも、始めて訪れるという気がしないものばかりで、居心地がよく、不思議な魅力に満ちていて、もしぼくがもっと普通の部屋に住んでいたら、すぐにでも引越しを決めてしまうに違いなかった。
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