一太郎
「君は小説家になれない」
大学卒業の間際、ぎりぎりで提出したぼくの卒業制作を読んで、先生は確かにそう言ったのだった。いや、もっと別な言い方だったのかもしれないが、ぼくにはそう響いた。
ぼくは卒業制作の小説を書き上げるのにすごく苦労して、どうして苦労したかというと何が書きたいのか自分でもよくわからなかったからだった。伝えたいことも伝えるべきと思うこともなかったし、そもそもメッセージを伝えるための手段として小説を捉えることにぼくは否定的だった。そのくせ純粋にストーリーを楽しめる娯楽小説にはすっかり興味を失くしていて、だから本当に書くことがなかった。
仕方なしにぼくは全く内容のない恋愛小説のようなものを書き上げ、本編に添える副論文の方に「書きたいことはないが、書きたい」というような事を百五十枚以上に渡ってだらだらと書いて、最後は投げ捨てるみたいにして提出したのだった。
受理してくれるだろうかとびくびくしていたところ先生に呼び出されたのは二月の終わりで、雪が降りそうな昼だったが、喫茶店の中は暖房が効きすぎでひどく暑かった。
「君の副論文には書きたいことがないようなことが書いてあったみたいだけども」
白い髭に埋もれかけた先生の口がもごもごと動いた。
「ええ、まあ、そうですね」
などと煮え切らないことを言っているぼくを、先生は
「だったら書かなくていいんだ」
と一蹴した。その時はまあその通りかもしれないと一応納得もしたのだけれど、後になって(何だかなあ)という気分が湧くようになった。
ぼくが副論文で書いたのは「書きたいことがない」ということではなくて、「書きたいことがないのに書きたいという人たちはいつも『じゃあ書かなくていい』と言われてしまうか、『金や名誉や自己愛のために書きたいんだろう』と判断されてしまうが、そうではなくてただ『書きたい』というシンプルな気持ちが当然認められるべきだ」ということだったのだけれど、先生に「書かなくていい」と言われてしまったということはやはりそれも伝わっていなかったんだなあと思う。
ただそれと同時に、そういう主張をするならそういう主張をする人間が書くような小説を書くべきだったと反省もするようになった。でもそんな小説があるのかどうかぼくには分からなかった。
その時以来何も書いていないぼくを、いじけていると見るならそれはその通りかもしれなかった。これで小説を書くようにと、ニッキが万年筆を贈ってくれたことがあったけれど、ニッキはニッキなりに何もしないぼくをそばで見ながら、もどかしさを感じていたのだろう。あるいは自分たち二人の将来を考えてぼくに発破をかけようとしたのかもしれない。今回の話もその流れで、水村さんも協力させてぼくの重い腰を上げさせようとしたのに違いなく、腰を上げたぼくが書くのが高校球児のアナルファック小説だったとしても、それは問題ではないようだった。もちろんぼくはそんなニッキの応援に感謝したり、奮起したりしてるのだけれど、それが実を結ぶということはまだなかった。
「次のイベントまでに書いてくれるのでもいいよ。原作も貸すから読んで」
水村さんはそう言って、さっきぼくを殴った重たいかばんを持ってきた。
「これが今日のお土産」
かばんの中身はやたらと大きく古いノートパソコンだった。水村さんの家の押入れからやってきたものだった。
「ポンコツだけど、『一太郎』はちゃんと動くから」
ニッキからもらった万年筆を使わない理由はまだ書くことが全然見えてこなかったからだけれど、ぼくはてっとり早く「ずっとワープロで書いてきたから手書きは疲れる」とか言ってごまかしていた。おかげでこんなことになってしまったと思いながらもとりあえず礼を言うと、二人は満足そうに
「どういたしまして」
と声を揃えた。
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