サンルーム

 夜の九時過ぎにまたにニッキと水村さんがやってきて、途端に賑やかになった。水村さんは昨日はほとんど眠っていないはずなのに、というかそのせいなのか、異様にテンションが高くて部屋に入ってくるなり

「おっす!」

 とか言いながらなにやら重たい四角いものが入ったかばんで側頭部を殴打されてしまった。

「痛いじゃないですか」

 と抗議しても全然聞いていなくて、

「よーしあと二日だあ」

 と早速画材を広げ始めた。その背中を呆れ半分に見ていると、ニッキがぼくの横を通り過ぎざま、殴られたところを撫でてくれたのだけど、ぼくにはそれがとても場違いというか意外な感じで、びっくりしてはっとニッキの顔を凝視してしまった。

「ん? なに?」

「いや、なんでもないけど」

「照れたの?」

「照れてないよ!」

 とぼくは照れたような態度で言ってしまったけれど、本当は妙な印象だけを感じていて、でもなぜ妙だったのかはよくわからなかった。

「今日は変なお土産とか、買ってこなかったでしょうね」

 とぼくが話題を変えると、ニッキと水村さんに共犯的な笑みがちらついて、

「持ってきたけど……」

「ねえ……」

 と顔を見合わせるだけで何を持ってきたのかは言わなくて、ぼくもまあ気になりもしなくて追求はしなかったのだけれど、結局あとですぐに判明した。


 ニッキが描いている漫画はギャグ漫画で、二〜三ページの短編をいくつかまとめて連作として乗せるつもりだから、もちろんそれぞれの作品に多少の連続した雰囲気はあって最後の作品で「大オチ」がくるという構成になってはいるのだけれど、もし締め切りに間に合わないようならいくつかを端折ってしまっても全体として破綻してしまうということはない。でも水村さんのは違って、一六ページひと続きの中編だから簡単に短縮するということが出来ない。間に合わなければ本を出すのを諦めるか、最後の手段として無理矢理「つづく」で終わらせるしかなかった。


 それで今夜はぼくもニッキも水村さんの漫画を手伝うことになった。ぼくは相変わらずベタ塗りと消しゴムかけを延々とやっていたが、それがすべての原稿で済んでしまうと、残りの作業は細かなスクリーントーンを貼ったりホワイトを入れたりという仕上げの部分で、ぼくが手を出せるような仕事はなくなってしまった。


 夕飯も食べず作業を続けて目も血走ってきた二人のために何か買ってこようと家を出て、大通りのコンビニへ行くのに運動公園の方へ歩いていると、不意にどこからか祭りの太鼓の音が聞こえてくるような気がした。でもその音はごくごく幽かで、太鼓が鳴っているとしたらすごく遠くだろうという感じで、足を止めて耳を澄ますともう聞こえなくなってしまっていた。だから気のせいか耳鳴りの類だろうと思っていたのだけれど、公園の遊歩道に入るとそうでもないことが分かった。


 まず酒のにおいが鼻を突き、男たちの開けた感じの話し声が聞こえてきた。夜の運動公園はいつも遊歩道の街灯意外は真っ暗なのに、今日はサッカー場に明かりが灯っていて、声はそちらから聞こえていた。サッカー場までは結構距離があってよく見えなかったけれど、どうやら祭のやぐらを解体しているところのようだった。でも祭があるなんて知らなかったし、本当にあったなら夕方には祭囃子や人のざわめきに気づいたはずだから、それが本当に祭りのやぐらなのかは分からなかった。もしかすると解体しているのではなくて組み上げているのかも知れながったけれど、真夜中にするような作業ではないような気もする。


 いずれにしてももう十一時を回っていたし、サッカー場に残っているのはやぐらだけで、町内会の出店のテントも赤い提灯も何もなく、時折にぎやかな笑い声を上げながら男たちの影が作業を続けているばかりで、ぼくが家をでて十分も経っていないのだから、さっきぼくが太鼓の音を聞いたような気がしたときには祭はとっくに終わっていたはずで、今日本当にこの公園で祭があったのだとしても、ぼくが聞いたのがその音だということはありえなかった。


 だとすれば、公園の周辺にこもった祭の雰囲気とか、もっと具体的に言えば酒や焼きそばや金魚のにおいの粒子か何かが風にのってぼくの家の方まで漂ってきて、そうと気づかずにすいこんだぼくの脳が敏感に反応して、引き出しの奥のほうから祭の記憶の断片として太鼓の幻聴を引っ張り出してきたのかもしれなかった。そういうことが起こっても不思議ではないとぼくは思っていて、逆にこういうことは常に発生しているに違いなかった。


 サンドイッチを買って帰ると二人は四畳半にいなくて、原稿用紙だけがちゃぶ台の上に重なってインクが伸びないように器用に並べられていてた。完成したのかと思ったけれど、よく見たらそうではなくて、どうやらインクが乾くまで次の作業に入れないらしかった。


 二人はサンルームにいた。粗末なサンルームは八角柱を半分に割ったような形をしていて、ちょうどその断面の部分で六畳間と接しているだけで、あとは木製の窓枠と窓ガラスで囲まれているだけだから、屋根はあってもほとんど屋外のようなものだった。四枚ある外開きの窓は絡みつく蔦のせいで一枚しか正常に開閉してくれないのだけど、水村さんはその窓の前に立ってガラスに顔を近づけたり遠ざけたりしていた。


 家自体が古いせいで、窓にはめてあるガラスはばらばらだった。特に古いものは最近のつるつるで均質なガラスとは似つかない、不均等な屈折率のせいで波打ったみたいに見える黄ばんだガラスだったりするのだけど、ぼくなどはそれがアンティークっぽくて気に入っているから、水村さんもその古いガラスに興味を盛ってくれたんだろうと思って声をかけようとしたら、ニッキに

「しーっ!」

 と止められてしまった。水村さんは立ったまま船を漕いでいたのだった。


 サンルームのタイル床は六畳間の畳より五十センチくらい低くなっていて、ぼくらはその段差に腰掛けてサンドイッチを食べた。蔦に覆われかけた窓から、イチョウの樹が聳え立っているのが見えていた。ぼくはまた水村さんがツリーハウスの話をするんじゃないかと思ったけれど、予期に反して彼女の口から出たのはぼくの話だった。

「小川君もさあ、書いてくれればいいのに」

「だって、もうぼくが出来るようなところは残ってないでしょう」

 散々手伝って来たという自負のあったぼくはそう反論したけれど、水村さんが言っているのはそういうことではなかった。

「違う違う、小川君の作品も本に載せたいんだよ」

「ええ? 俺がホモ漫画を描くんですか? 無理ですよ」

「漫画じゃなくてもいいんだよ」

「そうそう。どうせ暇なんだしい」

「ねえ」

 ニッキも加担してそう言い出すと、二人の顔にさっきの共犯者的な表情が宿っていて、これは何かたくらんでいるなとわかったが、水村さんから

「小説でもいいんだよ」

 という言葉が出て、途端にぼくの脳は立ち往生してしまった。

「え……」

 と情けない声を出したきりただ水村さんの顔をじっと見ているぼくに、彼女は「ん?」というふうに首をかしげてみせ、ぼくはそれで半分くらい我に返って、今度はニッキを見た。ニッキは平静を装いながらも、「何も悪いことはしてないもん」という強気の態度を滲み出させていた。


「小川君、小説書いてるんでしょ?」

 といった水村さんの薄ら笑いにはしかし馬鹿にするような揶揄のニュアンスは含まれていなくて、だからこそぼくは怒るでも惚けるでもなく、単純に気持ちのトーンがすとんと落ちてしまった。

「いや……だめですよ」

「どうして。短くてもいいのよ」

「とにかく書けませんよ」

 ぼくが頑なになって黙ってしまい、その場に妙な空気が流れかけたときに口を開いたのはニッキだった。

「いじけてるんだよね」

 えっ、と思った。いじける?

「いじけてるって?」

 語気を強めたぼくにではなく、ニッキは水村さんに解説をした。

「大学の先生にね、ボロクソに言われたもんだからいじけちゃってえ」

 それを聞いている水村さんも余裕たっぷりに頷いているだけで、それを見る限りこの話もすでに一度聞いているようだった。

「いじけてなんかいないよ」

 そう弱弱しく反論しながら、ぼくはすっかり自信をなくして意識の奥に沈んでいかなければならなかった。

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