シャウエッセン
翌朝八時過ぎに目覚めると、六畳間にはぼくの布団のほかに二人のために客用の布団を一組敷いておいたのだけれどそれは使われていなくて、汗くさいニッキがぼくの布団に割り込んで(ちゃっかりタオルケットを奪って)すうすうと寝息を立てていた。頬に黒インクがついてこすった跡が残っていて、シャワーも浴びていないのが一目瞭然だった。
カーテンの隙間から朝日が布団の上に降って、白い斑点を作っていた。風が吹くと斑点も揺れて、ニッキのあごから胸のあたりでちらちらと踊る。
じっと見ると、ニッキの頼りないくらい白い頬には近くで見ないとわからないような無数の淡いそばかすが散っていた。もちろんそんなことは知っていたけれど、こうして一方的にまじまじと眺めると、何気なくみている時とは違った印象を受けた。まるで別人の寝顔を見ているようで、それは同じ文字を何度も繰り返し書き続けているとその文字から意味が剥がれ落ちていって、裸になった図形としての文字だけでは脳が正確に捕らえることができず、本当にその字であっているのか分からなくなってしまうのとにていた。ゲシュタルト崩壊と言ったか。
まじまじと見てしまったのは、同じ布団で寝るのがえらく久しぶりだったからだろうと思った。ニッキの唇を指で押してみると、イタリア製のグミよりもマシュマロよりも、もっと柔らかいみたいだった。でも人間の唇は本当はマシュマロなんかよりもずっと丈夫だ。ぼくがつまんで引っ張っても、千切れたりはしないだろう。
「他に好きな人がいるから」
一緒に寝ても何もないのが一ヶ月くらい続いて、鈍いぼくもようやくこれは避けられているのかもしれないと気づいて問いただしてみると、ニッキは申し訳なさそうにそう言った。
「その人と私が性的な関係をもつことは絶対にないけど、キミとそういうことをしたら、している最中にきっとその人のことを考えてしまう」
とニッキは言うのだけど、ぼくがショックを受けて問い詰めたら「その人」というのは例のアニメのキャラクターなのだった。
「マニアの人はやっぱり筋金入りなんだなあ」
という感心と驚きではじめは圧倒されていたのだけれど、だんだん「本当に相手は二次元のキャラクターなんだろうか」という疑いが湧いてきて、とはいえ自分と性交している女の子の頭の中で高校球児たちがアナルファックを繰り広げているのはあまり気分がいいものではないし、そもそも音楽に興味がない人と音楽の話をしてもつまらないのと同じでぼくだけがやる気満々でもそんな行為は空虚以外の何物でもなく、性的な関係を持ち出さなければニッキとぼくは何も憂うことのない恋人同士のように見えて、だからこそそこから踏み出そうとする自分がまるで性欲の塊みたいに感じて気後れし、結局今まであやふやなままで来ているのだった。そのあやふやな感じも今では麻痺しつつあった。
水村さんはもういなかった。玄関の鍵は掛かっていて、濡れ縁側のガラス戸が開けっ放しで網戸のままだったから、そこから出かけたようだった。網戸に顔を押し付けるようにして外を見ると、ごく弱い風が吹いたり止んだりしていて、朝の光の中でイチョウの葉もさらさら鳴ったりしんとしたりした。風が止んでいる間も空き地の短い草はガサガサとうごめいていたけれど、それは雀の群れが虫をついばんでいるのだった。
台所で朝食のソーセージを茹でながら食パンをトーストしていると六畳間からニッキが出てきて、あくびと一緒に
「わらわんうぃい」
とかなんとか言ったけれど何を言っているのか分からなくて、とりあえず
「おはよう」
と言ったけれどニッキはおはようの続きを待っているみたいでじっとぼくの顔を見ていて、それを見ているうちに最初はよくわからなかった「わらわんうぃい」が「いま何時ぃ?」だったことに気づいて、
「まだ九時前だよ」
と付け加えた。
「じゃあ寝る」
「会社は? 水村さんはもう行ったんじゃないの?」
「でも私はまだいい」
「いいね、自由で」
「うん。水村さんね、私より遅くまで原稿やってたんだけど、偉いね。あ、シャウエッセンだ」
「食べる? あ、でもまた寝るのか」
「食べてから、寝る」
ニッキは茹でたてのウィンナーを熱がりもせずパリパリと食べて、
「肉はいいね」
とか言いながら布団に戻っていった。
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