ニッキ
ニッキは練馬のアニメ製作会社でアニメーターをしていて、水村さんはフリーのアニメーターなのだけれど今はニッキの会社に常駐して仕事をしている。
アニメーターなんていう低賃金かつ長時間労働の職業をあえて選ぶのはアニメが好きで好きで仕方がない人間たちで、だから口では大変だ大変だと言いながらも楽しい毎日を送っているんだろうとぼくなどは思ってしまうのだけれど、いつだったかニッキと電話で話していて「ニッキは好きな仕事が出来て幸せだよね」というような事を言ったら不機嫌になってしまい、
「私、君にそういう風に言われるの、嫌い」
と、急に冷たいような乾燥したような声で言われたので、ぼくは面食らったというか喉が詰まってしまって三十秒くらい電話代を無駄にしてしまった。
沈黙の後にぼくは
「ほとんどの人間はぜんぜんやりたくもない仕事をしていくらかの金をもらって、その金で買った食物から得たエネルギーをまた苦痛以外の何物でもない労働のために使わざるを得ないんだから、自分のやりたいことと少しでも地続きな仕事で飯が食える状態には感謝すべきだ」
と半分本気で半分は思ってもいないような反論をしてしまったのだけど、それは色々なことがうまくいっていない自分の状態に対するぼくの八つ当たりに過ぎなくて、そう分かっていてもそんな風に言ってしまうような気分がぼくの中にあるのをなんとなく分かって、ニッキはニッキなりの思いやりから、ぼくの羨望の言葉を叱咤するように跳ね除けたのかもしれなかった。
そしてぼくの方もそう気づいていながらその時は気持ちがうまく噛み合わなくて、もやもやしたまま電話を切ってしまった。
そのニッキが最近では
「やっぱり私、恵まれてるよね」
とか
「アニメーターになれてよかったなあ」
とか言い出すようになって、それはなぜかというと、現在ニッキの会社で手掛けている作品の原作マンガが彼女のお気に入りだからだった。
水村さんとニッキが仲がいいのも、職場の仲間というよりは同じ作品のファンだという部分が大きくて、二人でその作品のパロディ漫画の同人誌を作って即売会イベントに出るくらい入れ込んでいた。
今日二人がうちへ来たのもその漫画の原稿を描く(そしてぼくに手伝わせる)ためで、製本所に原稿を送る締め切りが迫っているものだから、会社から近いぼくの家で合宿を張っているのだった。
ぼくも昔から絵を描くのが好きで、子供の頃一時は漫画家を夢見たくらいなので(成長するにしたがって夢から趣味に、そして「少々覚えがある」くらいになってしまっていたが)、とにかく彼女たちの手伝い程度ならばこなすことが出来た。
ニッキと水村さんがえんぴつ描きの漫画につけペンでゴリゴリとペン入れをしていき、終わったものはぼくのところへ回された。登場人物の紙や背景の影の部分など、「×」がついている部分を面相筆で黒く塗りつぶしていくのがぼくの当面の仕事で、集中すればそう難しい作業ではないのだけれど、原稿の中身というか漫画の内容が目に入ってしまうとおのずと集中力が途切れてしまうのだった。
水村さんの漫画の中では、美青年揃いの高校球児たちが(坊主頭は一人もいない)大切な試合に負けでもしたのかロッカールームで泣いていて、捕手の子は明るくみんなを励ますのだけど投手の子は一人不貞腐れて出て行ってしまう。捕手はそれを追って廊下で投手をつかまえ、何か文句を言おうとするのだが、言い終わる前にその唇は投手の唇で塞がれてしまう。顔を赤らめ「やめろよこんなところで!」とは言うものの本当はやめて欲しくないのが見え見えで、二人はそのまま濃厚なアナルファックへ突入してしまう。
「ねえ水村さん」
「何」
と水村さんは描く手を止めずに答える。
「こういうのって、原作者が知ったらどう思うんですかね」
「人によるだろうけどね」
「でも黄金崎さんはいいって言ってたもんねー」
と口を挟んだのはニッキで、水村さんも
「心が広いよね」
なて言っているが、二人とも打ち上げパーティーか何かで原作者と会った事があって、まさか本人の前で同人活動を暴露するつもりはなかったのだけど同僚にばらされてしまい、恐縮していたこところ
「まあがんばってください」
と満面の笑顔で(本当だろうか)言ってもらったとかで、以来それを免罪符にそれまでWEBサイト上でイラストやらいかがわしい小説やらを公開していただけだったのを活動範囲を広げ、同人誌まで作るようになったのだそうだ。
原作者がOKを出していて、描いている本人たちが楽しいならぼくなどに言えることは何もなかったが、それでもどこか釈然としないのはぼくに同性愛に対する偏見があるせいだったり、本編以外のところで勝手に色々なことをさせられている登場人物たちに対する同情のせいかもしれなかった。でもその登場人物というのも、ぼくは原作者によって生み出された明確な「彼ら」を想定して同情したり感情移入したりしているわけだけれど、それも結局はぼくというフィルターを通した「彼ら」に過ぎない。人の脳から飛び出てしまったものはなんでも、そのままの形でいることは出来ないのだった。
仕事を辞めてからというものぼくは午後十時前には寝てしまう生活をしていて、十二時くらいまでは二人の手伝いをしていたのだけれど結局ぼくだけ睡魔に負けてリタイアしてしまった。二人はずいぶん遅くまで起きていたようだったけれど、朝方に何度か二人の笑い声で目が覚めたから、ずっと集中して漫画を描いていたわけではないようだった。
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