伊東さんの家
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
学校を出て、徒歩十分ほどにある僕の家の前を通り過ぎて、その向こう。
浮いている伊東さんを見たあの森の中へと入っていく。
この場所を森というには、少し木が少ないかもしれない。林位が適当かも。
歩いて行くと、三叉路にぶつかる。ここで、僕はいつも左に向かって、この林をぐるりと回り込むようにして、家に帰る。
右に行かないのは理由があるんだけど……。
「私の家は、こっちよ」
伊東さんが、僕を
僕が散歩の時に右に行かないのは、右には少し進んだところで行き止まりになっているというか、大きなお屋敷が、建っているからで。
「あのお屋敷が、伊東さんの?」
「ええ」
お嬢様だという噂は、本当だったのか。
彼女は今年の七月に編入という形で僕らの高校に入ってきた。二年生や三年生の時に編入するなら分かるが、一年生の夏、こんな中途半端な時期に来る編入生は少なく、それが美少女であれば尚更目立つ。
学校中を駆け巡った彼女の評判はすさまじく、用事もないのにうちのクラス、1-5の廊下の前を通る生徒が、男女問わず目に見えて増えた。
彼女の人気に反して、彼女の情報はなぜか驚くほど少なくて、勝手な噂が色々と飛んだ。
彼女は帰国子女で、父親がイギリス人で母親が日本人だとか。
彼女の両親は外交官で、いろんな国を転々としていたのだとか。
アメリカ生まれのアメリカ育ち、ヒップホップに育てられたのだとか(誰だ、この噂を流した奴)。
とにかく、伊東さんが海外にいたということだけは、なぜか噂で一致していた。
「家には、お手伝いさんと少しうるさい曾祖母がいるけれど、普段曾祖母は部屋に籠っているから、大丈夫」
「ひいおばあちゃん?」
「ええ、今101歳」
「ひゃくいち!?」
部屋に籠っているって……、そりゃその年だったら寝たきりでもおかしくない。
「だ、大丈夫よ? 本当に……、部屋にいきなり入ってくることもあるけれど、今日は多分……」
「!?」
101歳で、部屋にいきなり入ってくるほどのアグレッシブなおばあちゃんなの?
お元気で、なによりです。
網目になった鉄製の門扉の奥には、石畳が家まで続いていて、その周りには整備されたハーブ園が広がっていた。知っているものだけでも、ラベンダー、セージ、バジル、ローズマリーなどが植えられている。奥にはビニールハウスも見える。
そして広大な庭には他にも、こちらも知っている物だけでも月桂樹や、松、柳などの樹木が整然と並んで生えていた。
しかし、言っては悪いが統一感がなく、きっちりと整列して植えられているだけで、その並び自体に趣があるような、美しい庭であるとはお世辞にも言えない。
どちらかといえば、意匠を凝らした庭というよりは植物園のような感じだ。
石畳を歩いた先にある、よく見るサイズのドアではなく、両開きの重そうな木のドアの片方を開くと、映画でしか見たことのないような赤い
その階段の踊り場上には、どこか伊東さんに似た、ひげを蓄えた凛々しい男性の肖像画があった。
真鍮製の鈍く光った階段の手すり、割ったらいくらするんだろうかと思うほどの特大サイズの九谷焼(だと思う)の花瓶など、ありとあらゆるものはピカピカに磨き上げられている。
床も当然のように磨き上げられているが、この家の古さそのものは覆せないのか、全体的にどこか重く感じる。
歩くと、床もギシギシと古びた音を立てる。
「ただいま、
「お帰りなさい、智慧さん。あら、その子は……?男、の子?」
髪の毛に少しパーマがかかっていて、それを邪魔にならないようにぎゅっと縛っている、光江さんと呼ばれた60代位の女性。
薄いピンクのエプロンをつけて、正面にある階段の手すりを拭いていたが、その手を止めて、僕らの前に小走りで寄ってきて、スリッパを用意してくれる。
この手の性別の勘違いには慣れている。慣れたくないけど……。
「私のクラスメイトの中岡君よ」
「どうも、お邪魔します」
「あら~あらら~? 中岡、君なのね? 制服が男の子だったけど、最近ほら、ズボンも選べるようになったって、聞いてたから。どっちなのかなって。後で、お部屋にお茶をお持ちしますか?」
「いえ、私が自分で用意するからいいわ」
「わかりました」
にこにこしながらも、値踏みするような鋭い目でこちらを見たかと思うと、小さな声で「合格」と言ったのを、僕は聞き逃さなかった。
「もうっ! 合格ってなによ、光江さん!!」
「えっ、あらあら、そんなこと言ってませんよ~?」
いや、僕にも聞こえてるから。
「あと……、ひいお婆様にも部屋には入らないでって言っておいて」
「はい、それはもちろん言っておきますけど、あの方が絶対に入らないとは、とても私にはお約束できません……」
「……そうね」
少し空気が重くなる。
こんな空気を出されると、逆にちょっと会ってみたくなるのは、僕だけかな。
「私の部屋に、行きましょう」
「うん」
「ごゆっくり~」
振り返ると、にやにやしながら手を振っている光江が見えた。
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