四-②
*
6年前、私が小学校6年生の時の話。
介護士の母。その母に似て、面倒見のいい兄。そして、頭が良く、弁護士をしていた父がいた。
両親が共働きで、夜しか帰ってこなかったけれど、兄がいたから私は寂しくなかった。
だけど、その年の秋、全部を失った。
その発端は、7月に行われた裁判だった。父は6月に、余裕で勝てると豪語していた。完全無欠と言われていた父は、毎日忙しそうにしていた。私はその姿を尊敬してた。だけど、その裁判で父は初めて負けた。そこから父はどんどん変わっていった。毎晩お酒を飲んでは母に八つ当たりをするようになった。次第に言葉から体への暴力になっていって、兄が止めようとしても全然歯が立たなくて、兄にまで暴力を振るうようになった。私はそれを見ては泣くことしかできなかった。泣いて、父に目をつけられて、私まで殴られた。当然それは
あの日、父はいつものように晩酌をしていた。お酒を飲み始めた時に、母が私たちに自分の部屋に入るように言われたの。でも、私と兄は母のことが心配で、階段の影に隠れて2人の会話を盗み聞いた。
「ねえ、あなた。もう子どもたちに手をあげるのをやめてくださる…?」
「あぁ?誰に指示してんだよ。誰のおかげで生活出来ていると思ってるんだ!暴力を振るわれたくらいでなにか言える口じゃねぇだろ!」
父は目の前に座っている母に向かって暴言を吐きながら、殴ったり蹴ったりした。
「やめて…!やめてください…!」
「女と子供は黙って男に労力と体を差し出せばいいんだよ!」
「子どもたちまで巻き込まないで!!」
母が叫んでいるのを見たのは、これで最初で最後だった。
「この減らず口が…!!!」
そこで父は台所の鈍色に光る包丁が目についた様だった。それを持って母を何度も刺した。
「やめてくれ父さん!!!」
果敢にも兄は父に立ち向かった。だけど父は大人で、力も相当あった。だからまだ14歳だった兄には、父を止めることが出来なかった。そこで外に飛び出して、助けを呼んだ。きっとそれは私に殺意を向けない為だったのだと思う。勇敢な兄が最期にとった豪勇な行動だった。その後兄は父に追いつかれて、母を刺した鈍色の凶器で殺められた。私は階段の影でへたり込んだままだった。目線はただ、母の死体に注がれていた。あんな鮮やかで忌々しい赤色を、かつて見たことは無かった。見たくもなかった。目の前で殺されてしまったのに、私は何もしてあげられなかった。ただ、無力だった。その後悔の念だけが、家中に漂っていた。次第に父のつけたこの名前も、苗字も好きじゃ無くなっていった。
気づけば警察の人が来て、私は保護された。外で他の人も巻き込まれたのを見たのは、その時だった。兄も、顔見知りのご近所さんも2、3人、全員その場で倒れてて、救急車に運ばれて行った。野次馬の1人は軽傷だったけど、兄と、数人の事件を目の当たりにしたご近所さんは全員亡くなった。父は手錠をかけられて、警察署に送られて行った。相当暴れたみたいで、父の周りにはたくさん警察の人がついてた。
その夜、警察さんにあったことを全て話した。身寄りがいないというのもあって、一晩は署で眠った。その後、検事さんやテレビの人が次々に来て、思い出したくもないことを根掘り葉掘り聞かれた。当然その事は一大ニュースになって、色んな人に知れ渡った。幸い、母形の祖母が1人だけ生き残っていて、そのことを聞いて家に駆けきてくれた。祖母が喪主をして、お葬式もできた。その一方で、私は嫌な思いをたくさんした。学校に行けば殺人鬼の娘だと言われてはぶかれて、いじめられた。街を歩いていれば、孤児として
私の兄は勇敢で、気配りもできて、優しかった。周りと円滑な友好関係を築いていたみたいだし、成績も良かった。将来は海上自衛官になりたいと語っていた。私はそんな強くて優しい兄に憧れていた。
父が暴力をふるい始めた時、私を鼓舞するために兄はこんなことを言ってくれた。
『百合華は強くて優しい子だよ。父さんの暴力に耐えて、他の子を傷つけることなんてしてないだろ?それは偉いことだ。他の子の嫌がることをしないのは、とても凄いことだ。たとえ今辛くても、兄ちゃんが一緒だ。兄ちゃんも頑張るから、百合華も一緒に頑張ろう。』
兄はずっと傍にいる。例え兄が亡くなっていようと、傍にいてくれている。兄も傍で一緒に頑張ってくれているんだ。そう思えたから、頑張れた。
祖母は事件が起こって一年足らずで亡くなった。心筋梗塞だった。事件が起こった後、手続きや生活環境の変化、ご近所からの視線などで、相当のストレスを抱えていたみたい。救急車で運ばれたけど、ついに帰らぬ人となった。その日は中学1年生の一学期の終業式だったから、祖母の最期を看取ることはできなかった。
とうとう身寄りが本格的にいなくなった私は、ほのぼの森っていう施設に入ることになった。そこの施設長さんを経由して、土地や家、家の中のものを全部売り払って、お金にして、それを将来の学費用にした。幸い、詐欺とかにも引っかからなくて済んだ。
施設長さんも、そこで働いている人も優しくて、頑張って良かったって思えた。ほのぼの森に住んでいる子たちは、DVや捨て子、親と離ればなれにならざるを得なかったり、私と似たような境遇の子が多くて、すぐに仲良くなれた。年上や同い年はいなかったけど、とても生活が楽しかった。
私は施設に恩返しがしたくて、一生懸命学校の勉強や料理をした。高校と大学に進学するためにたくさん勉強した結果、クラスで1位をとることができた。施設では皆の中心的な存在になって、料理や洗濯をしてあげられるようになった。18:00が門限っていうのはそれが理由。他の高校生は22:00くらいまでは外にいてもいいんだけど、私はそうもいかないから。
土日の両日、バイトをしているのも、施設に頼りきりじゃだめだと思ったから。小学生のころ、母が好きなタロット占いを教えて貰った。それが母とのかけがえのない思い出で、その時使ったタロットカードは今でも持ち続けてる。それがきっかけで立川の占い師をやっている。偽名でも大丈夫だったから、白樺桃奈という新しい、自分ではない名前で活動できて、バイト先でものびのびとしていられた。
高校生になって、いじめはぴたりと止んだ。いじめっ子の中枢人物と別の学校に通うことになったからだと思う。幸い、友達もみんな優しくて、充実した毎日を送れた。だけど、私はこの毎日を失いたくなくて、過去のことを隠し続けた。
そして、友也と私が出会った日。あの日私は高校生向けの児童館からの帰りだった。18歳の誕生日を目前に控えて、高校を卒業したら1人で生きていかなければならないという不安に駆られて、どうしようもなかった。いつの間にか私は通過電車に身を乗り出してた。本当に無意識だった。だけどあの時、友也は私を助けてくれた。誰かが私を助けてくれたって実感したのは、あの時が初めてだった。そこからあなたにどんどん惹かれていった。共通点を見つける度、とても嬉しかった。そして同時に、嫌われたくない気持ちがどんどん強くなって、身元を隠さざるを得なかったの。自分を偽ることでしか自分を守れなかった。そうして友也を裏切ってしまった。きっと失望しただろう。それでも私はいじめられていた日々のように、友也にも蔑みの目で見られることは嫌だった。それが今まで嘘をついていた理由。結果として、私はその事が逆効果だって実感した。だけど、後悔してももう、時は戻ってこない。まるで枯れ木が花を咲かせないように。
*
「これが私の過去と、嘘をつき続けた理由。でも、このまま誤解されたままで嫌われるのはもっと嫌だった。私はずっと、あなたのことが、好きだから。」
桃奈──もとい百合華は事を全て話して俯いた。僕はそれを聞き、やるせない気持ちになったと同時に、いくつか思い出された。
『え──あ、私も20歳です。正確には、まだ19です。』
あの時少し間が空いたのは、歳や身元を隠したかったからか。
『これから受験だから、勉強しないといけなくて。』
『──あっ、心理学検定の!心理学にも検定があってさ、1級を受けようと思って…!』
あの時受験の意味は、大学受験のことか。
そして、あの事件のことを話した後。百合華は僕の話を聞いて悲しそうな顔を浮かべていた。あれは自分の身内の話だったからか。
百合華はずっと俯いたまま、何も話さないでいる。辛いことを思い出したからだろうか。僕は一体その姿に何を投げかければいいのか。
冷たい風が吹く。同時に木々が枯葉を落としながら揺らめいている。やがて風が止み、木々の揺らめきも止まった。
僕らが初めて二人きりで待ち合わせした日を思い出す。僕はあの時何を思ったか。亡くなった桃ちゃんと、生き残った百合華ちゃんの幸せを祈った。そして、百合華にまた何かがあったら救いたいと思った。僕はあの時何も出来なかったから。百合華があの時何も出来なかったかわりに、施設に恩返しをしようとした。それと同じで、僕はあの時何も出来なかったかわりに、百合華が散る前に救った。今も同じではないか。あの時何も出来なかったが、今は百合華に救いの手を差し伸べられる。目の前で苦しんでいる人を、みすみす見逃すなんてこと、誰がするだろうか。そして、僕は告白する前に何を思ったか。傍にいて支えたい。共にそれを乗り越えたい。何かに虐げられているのであれば、それから守りたい。それらは今効力をなさないでどうするというのか。
木々が風にのって踊り出す。
僕は口を開いた。
「僕、自然が好きなんだ。ああやって木々が踊っていると、ああ、自然も生きてるんだなって。この葉の擦れる音も、僕のことを歓迎しているように思うんだ。」
桃奈は静かに聞いている。時よりその頬に露が灯っていた。
「僕も、この自然みたいに、百合華のことを受け入れたいんだ。」
暫く間を開けて百合華が言う。
「…どうして?今まで…あなたを騙していたのよ…?」
その声は葉のざわめきに消えてしまいそうだった。
「桃奈は悪意があって嘘をついていたわけじゃないだろ?ただ、僕に嫌われるのが怖かっただけであって。そんな事情があったなんて知らなかった。けど、今僕はその事情をしっかりと知れた。話してくれてありがとう。僕はそのことがなかったら、裏切られたと思っていただけだったろうから。誤解が解けた今、百合華を責めたり、怒る理由なんてないよ。僕は君の傍にいたい。苦しさも一緒に乗り越えたい。何かに虐げられているなら、それから百合華を守りたい。木が枯れてしまったのなら、新しい芽を探して、一緒に花を咲かせようじゃないか。」
そう言うと、百合華が泣き顔をくしゃりとさせて笑った。
「ありがとう。」
お互いに笑い合う。
少し笑いあった後、百合華の隣にいって抱き寄せた。
少し間が空いた。いきなりの抱擁とあって、驚いたのだろう。
「本当に…ありがとう。こんな私を受け入れてくれて。」
そう言って、露の滴る声をなした百合華も僕を抱きしめた。
このささやかな幸せを、この先も育てていきたいと思えた。
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