現世鏡
かわらば
ある果実
私は仕事帰りに、近くの商店街に立ち寄った。家に食材がほとんどないからだ。
商店街はシャッターを下ろす店がそれなりにあるが、俗に「シャッター通り」などと呼ばれているところよりはましな気がする。
八百屋の前を過ぎるとき、見慣れぬ値札がかかっていることに気づいた。
『オモイデ 5,000円』
思い出、なんて食べ物は聞いたことがない。しかも五千円もするという。こんな極庶民的な八百屋にはあまり似合わない値段だ。
あまりにも謎だらけである。私は好奇心が強い方ではないのだが、今回ばかりは私の好奇心が「店主に訊け」と囁いている気がした。私はそれに従った。
「お客さん、そこに気づくとはお目が高い。最近開発された新種の果物でして、とても不思議な性質を持っているんです」
「不思議な性質?」
「ええ、なんとこの果物、食べると昔の記憶が思い出されるんです」
これは詐欺だな。
私はそう確信した。
「お客さん、疑ってますね。まあ、私も最初は半信半疑でしたよ。でも食べたら確かに思い出がとってもリアルに浮かんで来るんだ。しかも味によって思い出す記憶がどうやら違うらしい。これはすごい、と思ってウチでも仕入れることにしたんですよ」
私は正直まだ疑っていたが、店主は嘘を言っているように見えない。
だとすると、とても面白そうな果実じゃないか。
かなり値が張るが、とても興味が湧いたので一つ買ってみた。
家に帰って袋からオモイデを取り出す。
形はまるで柑橘のようだ。
店を出るとき、店主は
「まだ熟していない可能性があるので、食べごろには気をつけてくださいね。苦いうちに食べたらつらい思い出が出てきた、なんて話もありますから」
と言っていた。
これは果たして熟しているのかいないのか、どうにも判断がつかない。完熟した状態がわからないのだから、当然といえばそうなのだが。
まあいいや。食べればわかるさ。
私はナイフで輪切りにし、一口かじった。
苦かった。
そして脳裏に蘇ったのは、高校の時、好きだった子に告白されて断られた記憶。
ああ、これが「苦い記憶」ってやつか…
私はそう思い、この余ったやつどうしようか、などと半ば諦めて考えていた。
しかし、食べているうち、味に変化が起こった。
この果物はそんなこともあるのか、と驚いた。
思い出す記憶そのものは変わっていない。
変化したその味は、甘酸っぱかった。
現世鏡 かわらば @M-I-I-R
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