Paradice Fair 上

「…イズリ……アル……」

空の筈の記憶領域に見つけたのは昔の思い出。鼻の奥がツンと痛んであの日から枯れたはずの泪が頬を濡らす。差し込んでくる白い冬の日差し、その奥に人影が映る。――――彼と同じ、常世の凡ての色彩を混ぜ合わせたかの様な深い黒紫色の髪、思わず少女は手を伸ばす。感じたのは人肌の柔らかく温かい感触。

 ―――夢じゃない。

彼女はその姿を胸に掻き抱く、そこで本当に目が覚めた。

自分が寝ぼけて何をしたかを知ったから。



        ◆◇◆


「ごめん、アイリスいろいろと取り乱した。」

少女の目の前にいるのは、光の加減で色味を僅かに変える夜色の髪の

 短く切った髪とやや女性にしては低めの声音の彼女は今でこそ女物のドレスを着ているからその事が判るが、一度旅衣装に身を包めば、女顔の少年としか思えない。その彼女は現在進行形で机に突っ伏しトマトのように赤くなっている。

「いやごめんなさい、こっちこそ…その変なところ触っちゃって。」

着替え途中の彼女に後ろから抱き着いた……もとい襲ってしまったのだ。

手に残る二つの控えめなそれでいて柔らかい胸の感触。直後聞いたのは、今より二オクターブも高い可愛らしい悲鳴と剣が風を切る音。

幸い、部屋も家具も壊れなかったが、一歩間違えれば、アイリスの首とどうが泣き別れになっていた。――――まあ吸血鬼である彼女はその位では死なないのだが。

とはいえ、家を借りた旅人が家主を傷つけるのは、基本的に犯罪行為でもあるので、吟遊詩人はそれを恥じて顔を上げない。気まずい沈黙が束の間、二人の間を流れる。

「……っねえ、アイク。それなら元の名前を教えて頂戴。それでこの件は解決ってことで。」

行ってからなんか妙な気もしたがまあいい、アイク―――アイザックは男性名だ、少女が自分に課した擬態の一つ、

ただこうなった今では、物凄く呼びづらい。

彼女は顔をあげ微笑した。少し逡巡するような顔をして、意を決めたかのように一息に言う。

「アリスベルテ。アリスベルテ=ソフィエラ。これが僕の本当の名前。……前に変な奴に酷い目に遭わされかけてさ、幾ら吟遊詩人ジャングルールで、収入が不安定でも処女大事な物まで値札をつけて売り捌く程余裕が無い訳じゃないから、これぐらいのつまらない意地プライドは捨てることにしたんだ。……まあ流石に下着は女物だけれど。」

大麦と鶏の粥を食べながら彼女は語る。見た目だけは同世代なのと、奇妙な縁があったのとで二人は過ごした時間の割に打ち解けあっていた。紅く芳醇な香りの立ち上る、温めた葡萄酒に口付けながら少女はその細首を傾ぐ。

吟遊詩人ジャングルールってさ私、貴女を見るのが初めてなのだけれども、何を如何する人の事なの?」

物心ついた時には人里離れたこの家に住んでいて、彼女は山の麓の街と、後は一回だけ降誕祭クリスマスの時に王都まで行ったきりだ。薬と病気と怪我、それと、ある程度の日常的、教養的な事柄しか彼女は知らない。彼女のような存在を見たのはおろか、聞いた事さえなかった。首を傾ぐ彼女にアリスベルテは笑いかける。

「んーと、狭義の意味では、古今東西の面白話を口伝で伝え歩く人達の事、広義の意味でとると、ただの旅する何でも屋だよ。傭兵をしたり、大道芸をしたり、場合によっては、商隊キャラバンの護衛とかもする。宮廷に仕える輩がいれば、僕の様に民草の間で活動するのもいる。犯罪で無ければ、お金さえ貰えたら大抵のことはやるよ。…まあ僕は身体まで売る積りは無いけれどね。………ところでお代わりとかある…?」

因みに人狼は基本日々の消費エネルギーが人よりも多く健啖家な事が多い。

彼女もその例に漏れず、椀に大盛に粥をよそう。

それとは裏腹に多少申し訳なさそうにこちらを見てくるので思わずアイリスは朗らかに笑った。そこでふと彼女は考えた。

  “一体最後に笑ったのは何時だっけ…?”と。


納屋の中で少女は培養している薬用黴ストレプトマイセスのシャーレの様子を確かめながら思い浮かべる。

考えるのは人狼の少女の事、彼女と過ごした今日は、まだ一日の半分ほどなのに楽しかったから。

「ああでも、春になったら、」

彼女は行ってしまうのだろう、丁度あの時と同じ、花壇が花々で満ち溢れる頃に。

そうしたらまた独りになってしまう、そうしたらまた忘れてしまわないだろうか。

かつて自分を愛してくれた人のことも、吸血鬼の自分には似合わぬ奇蹟の事も。

見遣る庭、その玄関前、かつて“彼”が好きだった花の球根が植わる花壇には今は何も咲いておらず、紫紺の菖蒲の代わりに白百合の花束が十字の墓碑に供されていた。

弔われた人と同じ色の髪と瞳の少女がその前に膝をつき何事かを祈る、首飾ロザリオ白真珠ホワイトパールの球を指先で繰りながら。

黒土の中の墓石と少女、その光景と同じ様に、

独りきりなのは寂しくて、苦しくて。

だから記憶を破り捨てた。自分が壊れないように。

きっと彼女が居なくなった後に残るのは咲き誇る花とそれ故の虚無。

丁度彼を喪った時の様に、この庭は春の色彩と芳香で満たされるのだろう、けれどその花々も秋が終われば枯れ朽ちる。

それが嫌だった。

 そんな想いも知らないで、アイリスの視線に気付いたのか向こうで彼女は立ち上がりこちらへ手を振っていた。



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