you'll be a true lover of mine Ⅱ
「ねえ、アイリス君は
思い出すのは懐かしい、静かで甘い響きの声。
木製の車椅子がキィと軋む小さな音ともに、首を振る少女へ声の主である少年は告げた。
「何でも売ってる幻の市場の名前だよ。死者が物を売り生者がそれを買う常世と彼岸の交わる世界。昔はスカーバラと言った街の事。」
それはこの世界ではかなり有名な話だった。
人は死んだら
貨幣さえあれば、人の命だろうが、賢者の石だろうが、
だから其処を目指して旅するものは多く、但しそのうちの誰一人として帰ってきた者はいないという。
「ねぇ、気になるだろう?本当にそんな場所がこの世に在るのかもしれない。………まあ、僕はこんな足だから、旅なんてもう出来ないだろうけれど。」
この時は、まだ少女が、‟人”でなかった。
ただ吸血鬼の肉体に人格という
五、六年前のまだ毎日が宝石のように輝いていたころの
◆◇◆
あれから一体何年たっただろうか、少なくとも少年が青年になるまでの時間は、長い筈なのにあっという間に過ぎて去った。
薬品棚に抽出器具等が所狭しと並べられていた、
「イズリアル、体調は昨日よりかはマシ?」
温水でタオルを濡らし、少女は力なく仰臥する青年の寝間着のボタンをはずしてめくった。肋骨の浮き出た胸部に貼られた心電図の電極を付けたり外したりしながら丁寧に清拭していく。
すでに彼は立ち上がることはおろか、身動きすらままならなくなっていた。
体中にチューブや電極が取り付けられ身の回りの世話は全て少女に任せるしかない程に弱っていたから。
「多分ね……アイリス、すまない、こんなことを、君に…させるために、僕は君を、育てたんじゃ…ない…のに」
為すが儘にされながら青紫の唇で青年は言う。その‟多分”という言葉が嘘なのも少女には判っていた。
青年の気遣いだと知っているから尚更辛かった、本当は悪化している。
日に日に彼が痩せていくのを、少女は隣で見続けてきたのだから判らない筈が無かった。
横たわる彼は、繋げられたドレーンに、生命が吸い取られて行っているかの様に骨が浮き出で、腕などは少女よりも細くなってしまっていた。
―――何時からだっただろうか、彼がこんなにも痩せてしまったのは。
何度薬を塗りなおしても、床擦れは治らず、化膿こそ起こしていないものの未だに、数日前の傷へあてがったガーゼに血が滲む。
毎日自分で薬を調合して、塗りなおして、それなのに―――――――
彼から引き継いだ仕事の方は上手くいっていて、街に降りて買い物に行く度、町人から礼を言われる程なのに、一番救いたいひとには自分の
少女は薬師だ、人を薬で助ける存在、そう在れるように青年から薬学を教わってきた、だから彼は彼女にとって一番大事な人だった。
そうだというのに自分の成果はよりによって彼には効かないから――――……
「先生、私に教えてください、
―――――――もう判らないのだ。何が一体正解で何処を間違えたのかも。
ごめんなさい、こんな不出来な弟子で。今更こんなこと訊いて」
“本当に薬のことが学びたいのなら、それで身を立てたいのなら、そう呼んで、気の持ちようで習得速度は変わるんだ……少なくとも僕はそうやって師匠から教わってきたから。”
かつて彼が少女に言った言葉だった。
まだ覚えていたのかと青年は少女に苦笑し、彼女の方へ首を向けた。
「アイリス……言っただろう?…どの薬にも限界は、あるって……これでも…化膿して、いないのは…薬が効いている証で、傷が治らないのは………もう、僕が…、」
―――――認めたくは無かった、だから少女は唇を噛んで俯き首を振った。
けれど青年は重ねるように、大事な事を伝える様に言う。
「……だけれど、事実だ。それとねアイリス、青藍の誉れって知ってるかい…?」
青は藍より出でて藍より青し―――弟子が師匠より優れているという意味の諺である。
「君は、僕の誇りだよ…世辞なんかじゃ、ない。そうだったら、仕事なんて任せないよ……。僕は…藍だ、それが誇らしい、だからそんな風に、言わないで。」
途切れ途切れの掠れた声で青年は言う、そして生白い、枯枝の様に細くなってしまった腕を彼女の方へ持ち上げた。
けれど、少女の白銀の頭に触れるその前に、力の抜けた手が白絹の髪を掠める様にしてシーツに落ちる。
後に残ったのは苦しそうな荒い吐息、ただそれだけの動作で激しく息が上がる程に、彼に残された体力と時間は、もう殆ど底を着いていた。
少女はシーツに投げ出されたその腕を掴んで頬にあてがう。心機能まで最近は落ちている所為か、血行は悪く冷たかった。
少女の眦から零れた熱い雫がその細腕を伝い落ちる。
「……最期一つだけ、我侭を……言っても良いかな……?」
透明な笑顔で彼は言う、そんな風に言われて、断るなんて選択肢は少女の中に存在しなかった。
「君の作った庭、…一回見たいんだ………最近花が満開なのかな、此処まで香りが漂って来る…から」
覚えていてくれたんだ。少女は泣きながら嬉しそうに笑みを浮かべた。
それは何時か青年の体が治ったらと、三年ほど前から暇を見て作っていた薬草園・・・もとい、植物園だ。
「ええ、勿論。」
昔より遥かに軽くなってしまった体を少女は長らく放置していた車椅子に乗せ、玄関を開いた。
流れ込んで来たのは、春の香り。
ケシ、ジギタリス、ヒヨス、
春の色彩と芳香が鮮やかに咲き誇るその場所に、青年は色違いの両眼を見開く。
「凄い……これ全部、君一人で……?」
「そうよ、何時か二人で見る為に。」
車椅子を手押して少女は言った。何か月振りだろうか、青年と外を出歩くのは。
一人で見上げる空はどの季節も寂しく冷たい色をしていたから、
散歩をして、どれ位経っただろう。
‟休憩しようか”と少女は左右に菖蒲の咲く道に車椅子を止めた。
何時の間にか陽は南中し終えて、気付けば西の空にあった。
春の陽の温もりが二人を照らす。他の場所はもう巡り終え後はこの花園を抜けて家に帰るだけ。
そろそろ帰ろうか、と言おうとした処でポスンと頭に手が置かれた。
「今度は……届いた」
振り返れば痩せたその手が少女の方へ伸ばされていて、そのまま彼は彼女を抱きとめる……嘗て、まだ少女が何も知らなかった頃、よくやってくれた様に。
「イズリアル……?」
薄く骨ばった胸に顔を埋めた。耳を当てると何かが擦れる様な雑音。
壊れかけの肺が悲鳴を上げている様だった。苦しいのを我慢しているのかそれとも、もうそれすら感じられない程に感覚が麻痺しているのか、おそらくは後者だろう。青年のその
裏腹に、否、だからこそ少女は胸騒ぎを覚えた。
「僕は幸せ者だよ。…アイリス、君の事を愛していたんだ。……ずっと、今も。
結局こんなになるまで言えなかったけれど……だから心配してた。けどもう安心した。………もう君は一人で生きていけるから………。」
肺雑音は次第に大きくなり喘鳴となって彼の喉を鳴らす。それでも彼は、自分に残された時間を言葉に換えて紡ぎ続けた。見ればもうその瞳の焦点は合っていない
「や……いやだ、待って…」
少女の不安は収まる所か現実に投影されていく。彼女は青年をそっと花咲き誇る路の上に降ろしその体に縋りついた。その眼尻から零れた雫を冷たい彼の手が拭う。泣き笑いのような表情で彼は再び言った。
「アイリス…、僕は、死なない。君が……僕を、覚えていて…くれると、云うのなら。
君の…心の中で、
――――方便じゃない、本当にそんな気がするんだ。
きっともう彼世が近い所為だろう。言葉にしなくても言いたい事は伝わったのか、彼女は唇を引き結んで、こちらを見やる。
「僕はね、君に期待するんだ……永遠を、生きる
もしもそんな時が来れば、彼女を本当の恋人にしたかった、今度は一緒に居られると思うから。
「もう一度……やり直したかったなぁ……」
「らくえんの……いちで……まってる、か……ら………」
力を失った手が地に落ちる。
静かに彼は瞼を下した。肋の浮いた薄い胸板が幾度かゆっくり上下して、やがて風を切る様なヒュウという音と共に動きを止めた。
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