76.魔の九芒星

 突然の襲撃に船尾の甲板にいるシンカたち三人は、互いに背中を合わながら甲板の中央に立ち、周囲への警戒を強めた。

 先の衝撃のせいで安全装置セキュリティが働いたのか船は停止し、軋む音を立てながらその場でゆらゆらと揺れている。


「見ツケタ」


 不気味な声と共に海から現れたのは、小さく丸い石を中心に細い欠片のような石が三つ埋まった降魔こうま……マークィス級だ。

 今までの陸で戦った降魔とは違い、船柵に絡まる腕は触手のように伸び、体には滑りけがあった。


 マークイス級以上になれば、個体によって形状が違うことは知識として持ち合わせていたものの、シンカたちはこれに似たような個体を見たことがない。

 思えば運命の日にロウが相対した片方のマークイス級には翼があった。空に適応した降魔がいるのなら、海に適応した降魔もいて不思議はない。

 それなら海難事故がもっと頻発していそうなものだが、そういった類いの被害があったという噂は不思議と聞いたことがなかった。

 これもミソロギアに深域アヴィスが開いた影響なのだろうか……。


 嫌な予感を感じながらも降魔を注視する中、触手のような腕を振りかざし、降魔はカグラへと襲いかかった。


「私に目もくれないなんて……」


 迫るマークイス級をリンが横から殴りつけると、その体が軽々と吹き飛ばされる。


「ひどいじゃない」

「邪魔スル者、敵」


 降魔は触手で船の端を掴み、着地。そのまま船柵を蹴った勢いでリンに突撃するが、上から強く殴つけられ、床に叩きつけられた。


「――ギッ!?」

「今、この子たちは私のお客様なの。触れさせないわよ」


 叩きつけられた勢いで降魔の体が跳ね上がると、浮き上がった降魔の体を中空を切るしなやかなリンの足が捉えた。軽々と再び舞った降魔は船の壁にその体を強くぶつけ、そのまま甲板にずり落ちる。


「強い……」


 マークィス級の降魔に余裕を見せるリンの戦いに、シンカは感嘆の声を漏らした。

 見とれるような戦い。まだ魔憑まつきの能力を使っていないというのにこの強さ。

 その体捌きから、おそらくリンは近接戦闘が得意なのだろう。


「ナラバ先に消スノミ」


 新たな声にリンが振り返った先には、雷を纏った降魔の姿があった。

 リンが視界に雷の降魔を捉えたと思った途端、その場の中空に僅かな電気を残しながら、その姿が一瞬にしてリンとシンカの間から消え去る。


 リンとシンカ、二人の視線が交差する刹那、シンカの視界がリンの背後に現れた降魔を捉えた。


「リン! 後ろよ!」


 シンカの上げた声と、降魔が電撃を放ったのは同時だった。 


 振り返ったリンが見たものは、綺麗に砕ける氷の破片。氷の壁が電撃を防ぎ、その氷壁が砕け散る光景。

 咄嗟に彼女は間合いを詰め、すかさず捻りを加えた鋭い上段の蹴りを放つが、降魔は再びその場からいなくなり、同時に船の側面にある手摺りの上に現れた。


「みんな無事か?」


 ロウの声と共に駆けつけた仲間を見て、シンカとカグラは一先ず安堵の息を吐いた。

 スキアの強さは知っている。リンにスキア、そしてロウたちがいれば案ずることは何もない。そんな思いが少女たちの心を軽くする。

 そうそれがたとえ、あの悲劇を彷彿とさせる……デューク級相手であったとしても。


「我ハ雷。目デ追ウコト不可能」


 告げる雷の降魔の額の中心には、小さく丸い石に細い石が四つ。

 

「デューク級か」

「マタ増エタ。デモ標的ニ人」


 スキアがぽつりと声を漏らすと、リンに蹴り飛ばされていたマークィス級の触手降魔が、再びカグラに狙いを定めた……が、リンはそれを許さない。

 駆けるマークイス級の懐に入り、その腹部を深く殴り上げると、マークイス級の体が宙高く舞い上がった。リンは高く跳躍し、その長い脚を大きく振り上げると、そのまま勢いよくマークイス級の頭へと振り下ろす。


 大きな水音と共に高く上がる水飛沫。

 マークイス級が海面に落下し、リンは平然とした表情で船上に着地した。


「言ったでしょ? お客様には触れさせないわ」


 リンの体が淡く発光している。おそらく魔憑の力だろうが、それがなんなのか正確にはわからない。特徴から推測するに、強化系の部類に入るのだろうが。


「す、すげぇ」

「……やはり強い」


 唖然とその光景を見ていたリアンとセリスも、スキアの仲間であるリンの強さは想像してしたが、マークィス級相手に反撃を許さないその力量を見て驚きの声を漏らす。


 しかし、リンの強さよりもロウには気になることがあった。

 降魔の言った”標的は二人”という言葉だ。カグラを真っ先に狙ったことから、一人はカグラで確定だろう。となれば残りはシンカか。

 マークイス級以上の降魔は人の言葉を理解し、話すことができるが、何かを企むことができるほどの知能は備わっていない。ならば何故……。

 この降魔たちの背後に何かがいるのは、ほぼ確定的だといえるだろう。


「オ前達ガ束ニナッテモ、我ニハ勝テヌゾ」


 今の光景を見ていたにも関わらず、デューク級の降魔はそう告げた。


「勝てなかったらなんだってんだよ」


 スキアが数本の飛刀クナイを投げつけるが、デューク級はそれを軽く躱すと、再びその姿を消した。


「目で追えないって言ったわね」


 体全体ではなく、より鋭くなった瞳に魔力オーラのような光を纏わせたリンが呟くと、スキアの背後に現れるデューク級。

 だが、瞬時に移動したデューク級の眼前にいたのはスキアではなく、中空に薔薇色の軌跡を描きながら間合いを詰めたリンだった。


「そうかしら?」


 リンとデューク級の目が合った瞬間、瞳から魔力オーラが消えると同時に右手が強い光に包まれる。そしてそのまま、デューク級の額へ繰り出した拳撃。 

 デューク級は決して消えたわけではなく、凄まじい速さで移動していたにすぎない。魔憑の能力を発動しているリンからすれば、その速さも決して捉えきれないほどではなかった。


「くっ!」


 しかし、殴ったリンの手に電流が流れ、痺れる感覚。

 繰り出した右手を咄嗟に引き、左手で右手を庇うようにそっと触れた。


「我ハ雷。触レルコトモ叶ワヌ」

「なら、触れなければいいんだろ」


 デューク級にリアンが炎の魔弾を放つ。

 が、デューク級の体から迸る電撃が軽々とそれを相殺した。


「ちょ、リアン! 炎は駄目だ! イケイケ君が危ねぇ!」


 目の前の光景を見たスキアが、慌ててリアンに声をかける。

 確かに今船が沈めば大変なことになるとはいえ、この状況下で船のことを構っていられる余裕がないのも確かだ。だというのに、彼の慌てっぷりは異常だった。余程この船が大切なのだろう。

 しかし、そんなスキアに構わずリンは辛辣な言葉を口にする。


「アンタ、そんなダサい名前まだ言ってたの? 今はそれどころじゃないでしょ。もうすでに小破してるのよ? みんな、船のことは考えず全力でいいわよ」

「ダサくねぇよ! みんなもすげぇって感動してたんだからよ! 後、イケイケ君が小破した原因は全部オマエだろうが!」


 そんなスキアの反論も当然目の前のデューク級には関係なく、リンとスキアへ向けて電撃を放とうと手を向けた瞬間、細剣を抜いたシンカがその間に割って入る。

 同時に放たれた激しい電撃を、剣先から出した黒い渦で呑み込んだ。

 そしてすかさず――


「こんなのは返品よ!」


 威力が向上した凄まじい電撃を解き放つ。

 しかし、デューク級は焦る様子も避ける気配もないまま、その電撃を全身で受けた。眩い光が船上を覆い、船の側面を穿つ雷撃。


「だぁぁぁぁッ! イケイケ君がッ!」


 穴が空き、黒く焼け焦げた縁から煙が立ち上る中、スキアの悲鳴が鳴り響く。


「うるさいわね。船は修復石を使えばいいでしょ」

「いったい何個いると思ってんだ!?」

「それより……」


 これ以上無駄な口論をしている暇はないと言った様子でリンは言葉を切ると、眉間に小さく皺を作りながら目の前の降魔を見据えた。

 イケイケ君に被害が及ぶ中、当のデューク級はというと……


「我ヲ下級ノ雷ト同ジニスルナ。我自身ガ雷。雷ハ利カヌ。故ニ我ニハ勝テヌ」


 バチバチと音を立てながら電撃が全身に流れている中、デューク級は傷一つなく平然とした声でそれを告げた。


「……そんな」

「やっかいね。スキア」


 リンが一歩前に出る。

 左右の手に付けている指抜きの手袋の付け根を、右から交互にぎゅっと引っ張った。


「わかってるよ。今の時間じゃ俺の能力もフルで使えねぇしな。ほら、こっちだ」


 スキアはシンカの肩に触れると、端の方へと下がらせた。

 ここはリンに任せるつもりなのだろう。

 それは暗に、彼女一人でデューク級を相手にできると言っているようなものだ。実際にそれだけの実力を有しているのは間違いない。だが……

 

「ロ、ロウさん?」


 ロウの傍にいたカグラが心配そうに声をかけるものの、彼女の声が届いていないのか、ロウはじっと薄暗い海面を見つめていた。


「……気配が消えていない。ッ、どこだ」


 そう小さく呟いた声には焦燥の色が見えた。

 額に汗を浮かべ、目を凝らし、必死の形相で海面を見続けている。


「一人ズツ死ンデユケ。マズハ……」


 言って、デューク級がリンにその手を向けると、


「……いいわよ。来なさい」


 リンはデューク級に向かって、半身に構えた。


 途端――突如聞こえる水の音と舞い上がる水飛沫。

 音と同時に海面から触手が現れ、リンへと迫る。


「っ!?」


 予期せぬ一瞬の事態に、誰も動くことができなかった。


 足に絡む触手。そのまま舞い上げられる体。

 驚愕に目を見開くリンの視界の中に、そんなロウの姿が映り込む。

 海面を注視し、海に沈んだはずのマークイス級の姿を探していたロウだけは、この事態に即座に反応した。


 ロウの瞳は真っすぐにリンを見据えている。

 そして、その口元が動いた。


 ――みんなを頼む。


 再び上がる水飛沫と共に、ロウの体が海の中へと引きずり込まれた。


「馬鹿ナ奴ダ。一人ズツ消シテイク」


 そう言い残し、デューク級も海の中へと飛び込んでいく。


「ロウ!」


 咄嗟に追いかけようとするシンカの肩を、スキアは咄嗟に掴んで止める。


「駄目だ!」

「離して!」

「相手の能力をよく考えろ! 海中じゃ勝てねぇ!」


 説得するスキアの声は必死だった。


「なら、ロウを見捨てろって言うのか!?」

「――くっ」


 セリスの言葉に、スキアは言葉を詰まらせた。


 魔憑は普通の人間より身体能力が高い。それは泳ぎにしても、息を止める時間にしても、普通の人のそれを遙かに上回る。

 だが、だからといって水中を自由自在に高速で移動できるわけでもなく、ずっと息を止めたままでいられるわけでもない。

 地の利が完全に降魔にある以上、水中に特化した能力でもない限りやられにいくようなものだ。


「俺は行くぞ」

「待て! リアンの属性は炎だろ! 海じゃなんの役にも立たねぇ!」


 手擦りに足をかけようとしたリアンの腕を、スキアが強く掴んで引き留めた。

 爆発的な火力があるならまだしも、今のリアンの魔力では海中で炎を放ったところで、相手に到達するまえに消滅してしまうだろう。


「で、でも! こ、このままじゃロウさんが!」

「っ、わかった、俺が行く。お前らはここで大人しく待って――」

「私が行くわ」


 カグラの言葉にスキアが名乗り出るのを、リンの声が遮った。


「リン」

「ロウさんは私を庇ったのよ。だから、私がロウさんを助けに行くわ」

「だがな、リ――おい、リンッ!」


 スキアの返事も聞かず、彼女はすぐさま海へと飛び込んだ。

 慌てて船上から海面を見下ろすと、見えるのは幾つもの泡だけだ。 


「俺も!」

「止めろ、馬鹿! セリスの銃が海中でなんの役に立つんだ!」

「くそっ……くそーっ!」


 悔しそうに顔を歪めながら上がる悲嘆の声。

 皆が皆、自分の無力さに悲痛な色を浮かべていた。

 そんな中、スキアは皆を落ち着かせるように、努めて冷静に声を出すと、


「落ち着け。ロウの力は氷だ。あの降魔相手には一番有効と言える。ここはロウとリンを信じよう」


 船に取り付けた発光石のすべての角度を変え、ロウたちの沈んだ海面へと向けて照らし出した。

 暗い海面に淡く光る明かりが、ゆらゆらと波に揺れている。


「それしかないのか……」

「そ、そんな……」

「……ロウ」


 スキアの言葉に納得はできないものの、どうすることもできない面々は、ロウとリンが沈んだ海面を心配そうに見つめていた。

 すると、スキアは皆の不安を少しでも和らげようと更に言葉を口にする。


九つの惑星エニアグラムって言ってな。魔力には基準値、瞬発値がある。そして能力には集束力、拡散力、持続力、付属力、操作力、干渉力、瞬速力の七つ……全部で九つだ」


 スキアの簡単な説明をまとめるとこうだ。


 ――九つの惑星エニアグラム

 基準値はその者の持つ基本的な魔力の値を示し、瞬発値はその者が発揮できる最大限の火力を示す。

 そして集束力は一点に対する力、拡散力は及ぼす範囲、持続力は維持できる時間や強度、付属力は武器や身体に纏わせる際の相性、操作力はどこまで精密に操れるか、干渉力は相手の能力に対する効力、瞬速力は能力や技の発動時間とそれら自体の速度を示している。


 敏捷性、瞬発力、跳躍力、筋力、柔軟性、持久力、回復力、といったものを纏めて身体能力と称するのに対し、九つの惑星エニアグラムはそれの魔力版といったところだ。

 

「見たところ、デューク級は基準値と付属力は高いものの、集束力はそれほど高くなさそうだった。瞬速力も技自体は早いけど、発動までの時間は遅い。水辺で有利な力はなにも相手だけじゃねぇ。ほぼすべての値が上がる氷を扱うロウなら……きっと大丈夫だ」


 そう言いつつもスキア自身、皆を安心させる為に冷静に務めているだけにすぎない。

 確かに能力の相性という点だけで見ると、一方的に不利だというわけでもないが、相手が異形の魔物であるのに対し魔憑は人間なのだ。

 人間である以上、越えられないものがある。

 それこそが先も言った、身体能力の低下と生命を維持する為の呼吸だった。

 

 



 リンを庇い海中に引きずり込まれたロウは幾度かの抵抗を試み、氷で触手を凍てつかせて砕くものの、厄介なことに凄まじい再生力を持つ触手は逃げることを許さなかった。

 ならば本体を叩くしかないと、触手の先へ目を凝らしながら沈んでいく中、背後に感じたのはデューク級の気配だ。

 焦る気持ちと共に視線を向ければ、飛び込んできたデューク級はゆっくりとその身を沈めている。おそらく、完全な水中適応型ではないのだろう。

 しかし相手の属性を考えるに、これ以上近づかれるとかなり危険だ。早急にマークイス級を仕留め、距離を取らなければならない。


 幸い、といっても魔憑にとってはであるが、それほど深い海域ではなかったのだろう。少しすると、海底に薄っすらとマークイス級の影が見えた。


「我、水ノ中、息ガデキル。オ前ハ、ドウダ」


(デューク級から離れつつ戻る時間を考えれば、確かに猶予は……っ!?)


 途端、水中であるにも関わらず、かなりの速度でロウのすぐ横を通過する影。

 長い一束の髪を尾の様に引きながら、リンは手に作り出した魔弾を放つことなくそのままマークイス級へと叩き込んだ。

 一撃を加えると、ロウの足に絡ませていた触手が解け、ロウの体が解放される。


(追ってきたのか。どうして……)

(死なせないわ)


 二人の視線が交わると、リンがロウの手を引こうと手を伸ばす。

 瞬間――ゆっくりと沈んできたデューク級の体が光り出した。

 周囲にパチパチと小さく電気が走る中、ロウたちの脳裏を過ぎる最悪の光景。

 距離を十分に保っていればまだしも、この距離では直撃せずとも只では済むまい。


(――ッ!)


 即座にロウはデューク級へ手を伸ばすと、ありったけの魔力を解き放ち、デューク級を中心に周囲の海水を纏めて一気に凍てつかせた。

 氷山のように巨大な氷塊ができあがり、その中心にデューク級が閉じ込められている。

 しかしこれ自体に殺傷力があるわけではなく、あくまでも時間稼ぎにしかならない。



 ロウが造った巨大な氷塊の先端は海面にまで及び、大きな氷柱が顔を覗かせていた。


「ロウが戦ってるのね」

「あぁ」


 海面に現れた氷山の一角を見て、シンカとセリスが強く歯を食い縛る。

 結局いつもロウに頼るしかない自分を責めいるのだろう。

 シンカたちの中で、一番魔力の扱いに長けたロウに頼るのは仕方のないことだ。ましてやセリスに至っては魔憑ですらないのだから。

 しかし、それを頭で理解していても納得できるものではない。


「ル、ルインを簡単に倒したスキアさんでも、なんとかならないんですか?」


 カグラが懇願するような視線を向けると、スキアはじっと少女を見返した。


「覚えておくといい。最強の能力なんてのは存在しない。俺の力だって、影の薄い場所じゃ力を発揮できないんだ。この状況の中で、俺たちは無力なんだよ」

「……っ」


 彼の真剣味を帯びたその声音は、悔しさを含みながらも冷静だった。

 リアンは悔しそうに握り拳を作ると、その手を思い切り手摺りへと叩きつけた。


 能力には必ず相性が存在する。単純に水は炎に強いし、雷に弱い。

 そういった相性を覆すことは容易ではなく、それをするには互いの力量にかなりの差が必用だ。水は炎を消すことができるが、炎もまた、水を蒸発させることができる。

 結局のところ、その者の持つ魔力量によるところが大きい。

 先にあったスキアの説明のように、魔憑にある九つの惑星エニアグラムによる相性も考慮すれば、それこそ単純な話には留まらない。


 しかし絶対的な力の差があったとしても、覆せない相性もまた、確かに存在するのだ。

 最強の能力は存在しない。それはまさに、絶対とも言える理だった。





 ロウはデューク級の動きを封じるとすぐさまリンの手を引き、海面に向けて泳ぎ出した。氷塊がいつまで持つかわからない以上、今は一刻の猶予もない。


 しかし、海中から伸びるマークイス級の触手がリンの片足を捉え、再び海中へと引き戻していく。

 いくら魔憑の持つ腕力が強くとも、リンの能力が強化系であろうとも、踏ん張りの効かない水中では勝目のない綱引きだ。

 リンの足を捉えている触手を凍らせて砕くが、再び新たな触手にリンが捉えられる。 

 マークィス級は水中は自分の領域だとでもいうかのように、背中から新たな触手を生やし、その形状を変化させていた。


 するとリンはロウの手を無理矢理離し、彼の体を上へと押し出した。


(ここは私に任せて先に行って)


 リンが海面へ指を向けるが、ロウは首を左右に振って答えた。たとえ会話はできずとも、互いの言いたいことはわかる。

 途端、ロウの腹部に走る鈍い衝撃。

 ロウの無防備だった腹部をリンが殴り、ロウは反射的に肺に残る空気を一気に吐き出した。

 それでもリンの瞳を真っ直ぐに見据え、ロウは苦し紛れにその手を伸ばす。

 しかしその手が届くことはなく、リンの体がマークイス級に引かれ、海の底へと沈んでいった。


(リンさん! くそっ、息が……)


 そして吐き出してしまった酸素を求め、海面へと泳いでいくと、


「げほっ、げほっ! がはっ、ッ……はぁ、はぁ……」

「ロウ!」

「無事だったのね」

「よ、よかったです」


 安堵する皆の声に答えることなく、ロウは必死に呼吸を整え始めた。

 一秒でも早くリンを助けに戻らなければならない。

 息の限界もそうだが、氷の力の持続力がいくら向上しているからといって、氷自体が完全な絶縁体になっているわけではないのだ。ほんの僅かでも電気を通す以上、幾度となく雷を放出されては、あの氷が破られるのも時間の問題だった。

 

 とはいえ、無策で戻っても同じことの繰り返しにしかならないだろう。

 呼吸という人の構造上の限界がある以上、一瞬で二体の降魔を仕留める必要がある。

 今必要なのは、紛う事なき起死回生の一手だった。

 

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