04.飯の恩は何よりも
まだ朝日が昇るよりも少し早い時刻、森の中は薄暗く静寂に包まれていた。
黒くなった焚き木の傍ではすでに身支度を済ませたカグラが、木にもたれながら眠っているロウを見つめている。
その横で二人分の薄手の毛布を丁寧にたたみ終えたシンカが、小さな息を吐きながら、カグラへそっと声をかけた。
「カグラ、支度はできた?」
「うん。でも本当に何も言わずにいくの?」
問いかけたカグラは、少し不満気な表情を浮かべていた。
せめてもう一度、お礼を言ってから別れたかったのだろう。
しかしそんなカグラの気持ちを知りつつも、シンカはそれを受け入れはしなかった。
「この男が目を覚ましたら面倒でしょ。得体の知れない人を簡単に信じちゃ駄目よ」
「……うん」
「それに、私たちにはあまり時間がないもの。行きましょ」
そう言って歩き出したシンカの背を見つめ、カグラは憂いを帯びた表情を浮かべたまま俯くように視線を下げた。
すると、畳まれた毛布に挟まっている何かが視界の中に映りこむ。
それは一枚の紙だった。
すべての文字が見えたわけではないが、見える部分だけでもそこに何が書かれているのかは容易に想像がつく。
それを見たカグラの顔がつい綻ぶと、寝息すら立てず静かに眠るロウへと軽く頭を下げながら、
「ロウさん、ありがとうございました」
紙に書かれているだろう文字と同じ言葉を呟き、シンカの後を追いかけた。
それからしばらく歩いたところで、二人の少女は思わずその足を止めて息を呑んだ。
木々の隙間から差し込む朝日。少し距離はあるものの木々の隙間から見えるのは、大きな泉の周りに敷き詰められた黄色い絨毯。太陽の光が泉に反射し、きらきらと輝いて見える地上の太陽。
鏡面のような美しい泉で跳ねた魚の向こうに見えるそれは、広い向日葵畑だった。
「いつか、近くで見たいわね」
「そうだね」
ここよりも低い位置に見えるその光景は強く二人を惹きつけ、脳裏の奥へとしっかりと焼き付いていた。
…………
……
じりじりと照りつける日差しを浴びながら、数時間かけて歩き続けた二人の少女がやっとの思いで港町ミステルに辿り着いた頃、真上に昇った太陽と胃袋からの訴えが今の時刻を告げていた。
まずは腹ごしらえだと昼食のとれる店を探すために町の中へ足を踏み入れると、賑わう声が二人を迎え入れる。
この町が賑わやな理由は単に港町だからという理由だけではなく、歩く二人の隣に流れる大きな川があるからだ。
港へ続くその川は、上流を辿ればこの国の最大都市であるミソロギアまで伸びている。
小型の貨物船が物資を運ぶのに重要なもので、馬車を使って商業路を進むよりも遥かに早くつけるため、多くの商人がこの船を利用している。
川沿いには綺麗に舗装された道が続いているが、これは有事の際に軍が利用する軍用路であるため、一般の使用は禁止されているのだ。
ともあれ、二人は川沿いにある露店でホットドックを購入し、すぐ傍の
満足そうに柔かな表情を浮かべるカグラを見たシンカが、可笑しそうに小さな笑みを浮かべると、腰のポーチから一枚のハンカチを取り出した。そしてカグラの愛らしい唇の端についたケチャップを優しく拭ってあげる。……ふきふきと。
途端にカグラの頬が赤く染まり、恥ずかしそうに「ありがとう」と言った彼女に微笑むシンカの姿は、見ていて微笑ましい姉妹の姿だった。
「ここならそこそこいけそうかしら」
賑わいを見せる広場の中央で、シンカは周囲を見渡しながら満足そうな声を漏らした。
「お姉ちゃん、気をつけてね?」
「わかってるわよ。ちゃちゃっと稼いでやるわ」
心配そうなカグラに握り拳を作りながら微笑みかけると、シンカはポーチから掌サイズの綺麗な立方体の石を一つ取り出した。
そしてその石を撫でると表面がぐにゃりと歪み、そこから数本の竹刀と看板を手際よく取り出していく。
この不思議な石はシンカの魔憑としての能力によるものではなく、
――
この世界には魔石という魔力を持つ石が存在し、人々の生活の要となっている。
魔石は無限に使用できるわけではない。石に蓄えられている魔力がつきればその効力を失うため、そのたびに買い替えるのだが、これがなかなかに値が張るのだ。
生活の要ではあるが、各国が管理している鉱山からの採取が主であり、素人が簡単に採れるような代物ではない。
しかし、まだ人の手の入っていない危険地域に行くと、運良く魔石を見つけることもある。使いやすいように加工しなければならないため、そのまま使用することができず、大半が売るか金を出して加工してもらうかしかないのだが。
火を起こす魔石、光を発する魔石、水を流す魔石と、他にもさまざまな魔石が存在しているが、中でもシンカが取り出した魔石は、ある程度の質量までなら石の中に収納できるという非常に便利な収納石と呼ばれるものだった。野宿に必要な毛布や
といっても、大きすぎるものや多くの量を入れようと思えば、それなりの大きさで純度の高い魔石が必要になってくるため、商人たちにとって荷馬車などの存在は今でも必要とされているのだが。
収納石から取り出した竹刀を並べるカグラの横で、シンカはどんっと看板を立てる。力強く立てられた看板にはこう書かれていた。
【挑戦者求!】
参 加 料:銅貨十枚
勝負内容:竹刀での一本先取
賞 金:銀貨二枚
途端、その看板に目を引かれた者たちが集まりだした。
集まった誰もが同じような表情を浮かべ、何が始まるのかと興味深々のようだ。
その中で真っ先にシンカへと声をかけたガタイの良い男の表情と声には、余裕というか自信のようなものが感じられる。おそらく、剣術の心得でもあるのだろう。
「それって姉ちゃんが相手なのか?」
「そうよ」
「男でも参加はでき――」
「もちろんいいわよ。やってみる?」
男の質問を聞き終わる前に、シンカは自信のある声で返した。
口の端を持ち上げ、男に負けじと余裕の笑みを浮かべている。
「よっし! 先に一本取れば銀貨二枚だな」
「えぇ、でも先に一つ忠告しておくわ。これでお金を稼ぐんだもの。当然、私は強いわよ? それでも納得なら挑戦は銅貨十枚ね」
周囲から見たシンカの見た目はただの強気で細身の少女で、とても強そうには見えないだろう。
一応の忠告をするシンカの言葉を鵜呑みにせず聞き流しながら、男は銅貨十枚をシンカの横でちょこんと立っているカグラの持った箱へと入れた。
「ほらよ」
「ありがとう。じゃあ、この竹刀の中から貴方の使うものを選んで。後で不正って言われたら困るから、私の分も選んでいいわよ」
「強気な姉ちゃんだな。心配しなくても不正なんて言わねぇよ、ほら」
並んでる竹刀を指さしながら答えるシンカに、男は笑いながら答えた。
男は適当に選んだ竹刀を一本シンカへ投げ渡すと、自分の竹刀を正面に構える。
さまになっているその姿からは、やはり少しは心得があるように見えた。
「嬢ちゃん、頑張れ!」
「あんな華奢な体で大丈夫なのか?」
「女相手に本気だすなよ~!」
周りの野次馬が次第に熱をもって騒ぎ出す。
シンカを応援する者もいれば、心配する者、自分が次に挑戦するために強さを見極めようとする者とさまざまだが、どの視線も竹刀を構えた二人に注目していた。
「お、お互いの武器は竹刀のみ。腕や足での肉体を使った攻撃も可能ですが、一本の判定にはなりません。竹刀で相手の体のいずれかに攻撃が当たった場合のみ有効で、先に一本先取したほうの勝ちです。当然、過度に相手を痛めつける行為は反則となります」
シンカと男の間でカグラが試合のルールを簡単に説明する。
しかし、カグラの性格からして人前に出ることに慣れていないのか、恥ずかしそうに頬を染めていた。
「へへっ、わかりやすくていいじゃねぇか。手加減はしないぜ」
「いらないわよ」
「そ、それでは……はじめっ!」
「おらっ!」
カグラの開始の合図と共に男が一直線にシンカへと向かい、竹刀を振り下ろす。その攻撃をギリギリで躱したシンカだが、男の攻撃が止まることはない。力でこのまま押し切るといわんばかりに、連続で素早い攻撃を仕掛けていく。
はたから見ればまるで防戦一方のシンカが押されているようだが、最後は一瞬だった。シンカの竹刀がカウンターの形で男の胴を綺麗に捉えたのだ。
「くそっ!」
「はははっ、情けねぇなぁ」
「よぉし! 次は俺だ、俺!」
試合が終わるや否や、悔しがる男と沸き立つ周囲の声。
すぐさま次の男が銅貨十枚をカグラの持った箱へと入れる。
「俺にさっきのまぐれあたりはないぜ」
「そ」
自信のありそうな男にシンカはそっけなく言葉を返すが、その後も次々と彼女は勝利を積み重ねていった。
男の攻撃を辛うじて受けつつ苦し紛れに放った一撃、運よく体勢を崩した男に叩き込んだ一撃など。女神の加護でもあるのか、まるでまぐれのように勝利をもぎ取る少女……周囲にはそう見えただろう。
その試合内容に、周囲に集まる野次馬の熱はどんどんと高まっていった。
「あれは君のお姉さんかい?」
すぐ隣から聞こえた曇った声にカグラが視線を向けると、そこにいたのは黒い
明らかに怪しげな風貌にカグラが一瞬言葉を返すのも忘れていると、返事を求めるように顔だけ向けた男の視線が……否、薄く笑う黒狐のお面がカグラを捉える。
それを見たカグラは取り乱したように口をわなわなと震わせるも、ゆっくりと視線を前に戻し、胸に手を当てながら深呼吸を繰り返して自分を落ち着かせた。
「落ち着いた?」
「はは、はい……お、驚いてしまってすいませんでした」
「いいよ。それであの人は?」
「わ、私のお姉ちゃんです」
「へぇ~……」
――やっぱりあの人が……
納得するような、あるいは値踏みするような声の後、最後に呟いた言葉は周りで上がった野次馬の声にかき消された。
「かぁーっ! 嬢ちゃんやるじゃねぇか」
「大人の男があんな女の子に勝てないなんて情けないわね」
「うるせぇな。あの姉ちゃん、結構すばしっこいんだって」
どうやら今回もシンカが勝利を収めたようだ。
無論、魔憑であるシンカが負けるはずもないのだが、勝負というのは何が起こるのかわからない。
カグラが安堵の息を吐くと、耳に届いたのは鎖の擦れるような音だった。振り返ってみると、隣にいたはずの狐面をした男の黒い背中が遠ざかっていくのが見える。
いったいなんだったのかと小さく首を傾げると、次の挑戦者の声にカグラの思考は引き戻された。
「よしっ、もう一回だ! 次こそ勝つ!」
一食はだいたい銅貨五枚で賄うことができる。銀貨は銅貨五十枚の価値があり、金貨は銀貨五十枚。その上に黒貨もあるのだが、それは一般市民がおいそれと拝めるものではなく、仮に換金できるだけの硬貨を手にしても決してそんなことはしない。
それはたった一枚の紛失からくる損害が、凄まじいものになるからだ。
つまるところ、今回の試合に関しては十回のうち一回でも勝てば損はなく、九回のうちに勝つことができれば挑戦者側の利益となる。
その上、相手が十代の少女ともなれば、挑戦する男たちが半ば意地になるのも無理はない。
が、そんな男たちの声に割って入るように、一人の男が声をかけた。
「無駄だ。お前たちじゃいくらやってもその子には敵わない」
声の主である黒いローブを纏った男が前に出る。
ローブと一対になったフードを被っている姿に、カグラはさっきの狐面の男を思い浮かべるも、今回の男が顔につけているのは、白くて愛嬌のある顔をしたお面だった。
いくら愛嬌があるとはいえ、普通ならお面を被っているというだけでいかにも怪しい恰好だと思うだろう。
しかし、ここは旅人や商人が行き交う港町。旅芸人も多く訪れるためか、誰もそこに突っ込みはしなかった。特に、今日という日ならなおさらだ。
「んだと!?」
「だったら、てめぇがやってみな!」
いきなり割って入った男の言葉に苛立ちを感じたのか、声を荒げる男たち。
お面をつけた男は、瞬く間にして周囲の注目を集めた。
「……どうするの?」
シンカが参加するのかと尋ねると、お面の男は何かを握った拳をそっと突き出し、それを受取ろうと差し出した彼女の掌に置かれたのは、一枚の銅貨だった。
「十枚よ」
今度は銅貨をのせたシンカの掌に飴玉を置くお面の男。
「た・り・な・い!」
そしてさらに男が飴玉を置こうとした瞬間、シンカは額に青筋を浮かべながらキッと男を睨みつけると、胸倉を掴んで声を荒げた。
「たりないっていってるでしょ! あんた何? やる気あるの? からかってるの? はっきりしなさいよ!」
そうまくしたてながら、男の胸倉を掴んだままぶんぶんと揺さぶった。
「おおお、お姉ちゃん!」
その光景にカグラは慌てふためき、どうしていいのかわからずに混乱している。周りに助けを求めるように、あわわと視線を泳がせた。
「そうだぜ! でかい口叩きながら文無しかよ、はははっ!」
「文無しなら俺が貸してやるぜ? ちゃんと銀貨に変わりゃ返せるだろ?」
「お前そりゃ勝てたらの話だろ、はははっ!」
しかしそんなカグラの思いとは裏腹に、野次馬たちはお面の男へと煽るような言葉を次々に投げかけた。
「ま、待て。ちょっとした冗談だ。わかったから離してくれ」
「ふん」
やっとシンカが手を放すと、お面の男は首元を撫でながらほっと一息吐いた。
「ずっと仏頂面をしてるから笑わせようとしたんだが、駄目だったか」
「……なによ」
シンカに聞こえないくらい小さな声でぼそっと呟いた声に反応するシンカが、男をじっと睨みつけた。
それに対し、顔を逸らした男は慌ててなんでもないと答え、銅貨十枚をカグラの持った箱に入れる。きっとお面の下には、たらたらと冷や汗が流れているに違いない。
二本の竹刀を手に取り、片方をシンカに渡すと男は竹刀を構えた。
「ねぇ、お姉ちゃん。あの人の声どこかで聞いたことない?」
そっとシンカに耳打ちするも、お面のせいで男の声がこもっているため、カグラは聞き覚えのあるようなそれをなかなか思い出せないでいた。
「覚えてないわね。心配しないで大丈夫よ。危ないから離れてなさい」
「……うん」
カグラがその場を離れると、シンカはお面の男の正面に立って竹刀を構えた。
「カグラ」
「うん。お互いの武器は竹刀のみ。腕や足での肉体を使った攻撃も可能ですが、一本の判定にはなりません。竹刀で相手の面、小手、胴のいずれかに攻撃が当たった場合のみ有効。先に一本とった方の勝ちです。当然、過度に相手を痛めつける行為は反則となります。それでは……はじめ!」
カグラが試合開始を合図するが、今までの男たちとは違ってお面の男に攻めてくる気配はない。
むしろ身動き一つせず、あまりにも静かだ。
「こないの?」
「……残念だが、君じゃ俺には勝てない」
「大した自信ね」
「もちろんだ。理由が知りたければいつでもこい」
「そう。それじゃあ……遠慮なく!」
わかりやすい男の挑発にあえて乗り、シンカは竹刀を構えたまま一気に間合いを詰めようと地面を蹴った。
「君が勝てない理由……それは……」
お面に手をかける男の言葉に、周囲の野次馬たちも一斉に静かになると、ごくりと生唾を飲み込んだ。
短い時間の中に訪れる僅かな静寂。そんな中……
――リンッ
「っ!? この音っ」
「飯の恩は何よりも代えがたいものだか――ぐはっ!」
お面を取るときに鳴った鈴の音でシンカは相手がロウであると気付いたものの、その勢いを殺せなかったシンカの竹刀が、とても良い音を響かせながらロウの額に直撃する。
「あっ……」
やってしまったという顔をするシンカを前に、ロウが一撃で撃沈した。
勝負は一瞬だった。
激闘の末、最後の勝敗を分けた一撃が一瞬だっとという意味ではない。
試合自体が、そのままの意味で一瞬だった。
再び訪れる静寂。
しかし、先程のたまらず生唾を飲み込んでしまうような静寂ではない。
単にこの空気をどう扱っていいのか、誰もが困っているようだった。
そんな中、静寂を破るかのようにカグラの声が鳴り響く。
「ロ、ロウさん!?」
慌てたカグラが駆け寄ってロウを抱き起こす。
既視感のある光景に、シンカは居心地が悪そうにそっと目を逸らした。
しかしやはり気になるのか、ちらちらと視線が倒れたロウへと向けられている。
「だ、大丈夫ですか? しっかりして下さい」
「カグラちゃん……俺は……鬼を見た」
「誰が鬼よ! 誰がっ!」
ロウの言葉にキッっと睨んだシンカが、ロウの胸倉を掴んでぶんぶんと揺さぶりだす。
さっきよりも強く勢いの乗ったそれは、容赦なくロウを締め上げた。
「お姉ちゃん! だ、駄目だよ! そんな追い打ちかけたらロウさんが!」
首の締まったロウの意識が遠のいていき、まるで口から魂が抜けかけるかのようにぐったりとしている。
それを見たカグラの顔が少し青ざめ、目を丸くしながら慌てて呼びかけた。
「きゃーっ! ロ、ロウさん!」
「あっ……」
シンカは慌てて手を離し、スカートをぱんぱんと軽く払いながらそっと静かに立ち上がった。
「……こほん」
そして、わざとらしく咳払いをした後、まるで何事もなかったかのように振り返る。
その片隅には見るも無残に転がっているロウと、その傍で慌てふためくカグラの姿。
「さっ、次は誰が挑戦してくれるのかしら?」
そう言ったシンカの顔は笑顔だった。
この広場の見物人たちはシンカの笑顔をこのとき、初めて目にしたのだ。
普段強気で誰も寄せつけないような彼女の笑顔は、きっと誰から見ても可愛かったに違いない。そう、直前にあんなことがなければ……。
シンカの笑顔は誰でもわかるほどに、見事なまでの営業スマイルだった。
彼女の言葉に周囲は気まずそうな微妙な笑みを浮かべながら徐々に徐々にと後ずさり、あっという間にいなくなる。
そして訪れたのは三度目の静寂。
その静寂の中、シンカは笑顔のままで固まっていた。
港町ミステルは旅人や商人が行き交う、活気ある町である。そのミステルの広場が、それもこんな真っ昼間にここまで静かになったのは、過去を振り返ってもそうそうありはしないだろう。
「っ……てて」
「気がついたんですね。よかった」
遠のきかけた意識を回復させたロウが上半身をゆっくりと起こすと、カグラはほっとした表情を浮かべた。だが……
「ふぅ、何か嫌なものを見た気が……」
ロウがそう言いながら視線を目の前に向けると、まるでカラクリ人形のように首をロウに向けたシンカと目が合った。
このとき、ロウも初めてシンカの笑顔を見ることができた。
金銭を渡す際にシンカを笑わせる作戦は失敗したものの、皮肉にもこのときのロウは当初の目的を達成していたのだ。
営業スマイル……いや、この際そんな作り笑いでもよかったとロウは心の中で思っていた。額に青筋を浮かべながらロウを見つめる今の笑顔よりかは、と。
まさに笑顔の仮面を被った鬼。かたや、愛嬌のあるお面を被っていた哀れな子羊。
「あ、あの……シンカさん? いったいどうしたんだろうか」
顔は笑顔だが明らかな怒気を放つシンカを前に、たらたらと汗を流すロウ。
背中に感じる寒気がロウへ警鐘を鳴らす。
「あんたのせいで……客が逃げたじゃないの!」
そう言い放ったシンカは、竹刀を大きく振りかぶった。
見事なフォームだ。と、ロウ内心思ったが今はそれどころではない。
「お、お姉ちゃん、おおお、落ち着いて!」
「ま、待ってくれ!」
「問答無用!」
慌ててシンカを落ち着かせようとするカグラとロウの声は届かず、無慈悲に投げられた竹刀が勢いよくロウの額に飛翔し、直撃した。
「ぐはっ!」
「ロロロ、ロウさん!」
「お姉さんに……伝えてくれ。竹刀は投げるものじゃ……ない……と」
その言葉を最後に、がくっと垂れさがるロウの頭。
その表情は再び魂が抜けたかのように放心している。
「あぁあわわわわっ。ロ、ロウさん! しっかりして下さい、ロウさんっ! ロウさーん!」
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