これは君のパラミシア

御乃咲 司

※※ ■■■-狭間のアセンブリー

Give MOD 「         」

 

『――それでもいつか、………………………………』



 …………

 ……



 目の前に広がっているのは、まさに幻想的な光景だった。


 舞うように散る花弁。

 揺ら揺らと、数え切れない桜色の花びらが中空を漂っている。

 いや、あるいは桜色をした雪か。

 蛍のような儚く淡い光を纏いながら、花弁の雪は空から舞い降りていた。

 それは別れを告げる桜雪。それは心が零した悲しみの涙。


 ――チリン


 美しく響く鈴の音。

 一度だけ、隔てる物のない空間で静かに響く。

 そう、それは消え入りそうな儚い音色。

 桜雪の花弁に混じって聞こえる音色は、遥か彼方まで届くほどに澄んでいた。

 それは大切な人を見つける為の標。それは心が求めた救いの声。

 

「――!」


 一人の少女が声にならない叫びを上げる。

 今にも消えてしまいそうな男の背へと、必死にその手を伸ばしながら。

 何かを伝えたいのか、それともその人の名を呼んでいるのだろうか。

 ただわかること――

 それはその人を失いたくないという純粋な想い。大切な人を失う恐怖と悲しみ。

 その想いが少女の悲痛な声となり、溜まった雫を虚空へ流す。


「――!」


 何度声を上げようと、その音は届かない

 どれだけ手を伸ばそうと、その指先が届くことはない。

 わかっている。きっとこれは悲しい幻夢。それでも消えない音無き慟哭。

 決して届かぬ声、決して触れられない薄れゆく体。

 それでも少女は震える足を前に出し、鈍い身体に鞭を打つ。

 少しでも近づこうと、少しでも追い付こうと、その足を進めていく。


「――!」


 後少しというところで、その背中が何かを言葉にしながら振り返った。

 その消え入りそうな儚い想いは、果たして少女の耳に届いたのだろうか。

 男は最後、柔らかく微笑んだ。

 その微笑みはとても優しくて、とても温かくて……とても、残酷だった。

 そしてその姿は遂には消え去り――

 その背を掴もうと懸命に伸ばした少女の手は、虚しく空をきる。


 …………

 ……



「これはこれは、待たせてしまって申し訳ありません」


 声の方へ視線を向けると、そこには一人の男がいた。

 丸机テーブルの傍には配膳台ワゴンが置かれ、その上には受皿ソーサーに乗った紅茶杯カップ紅茶瓶ポット、そしてお菓子。まるで今からお茶会でも始める準備をしているようだ。

 男は黒の燕尾服に身を包み、頭にはシルクハット。おまけに杖を持ったそのは、紳士のそれを思わせる。

 何故この様な場所にいるのか、それどころか此処が何処なのかすら分からない。

 それを尋ねようにも声は出ず、体を動かす事もできないとあってはお手上げだろう。唯一動く瞳をゆっくりと、上下左右へ動かしてみる。

 自分の状況を把握しようとしてまず第一に感じた事、それは……


 ――異常な空間


 ここを訪れた者は、誰しもがそういった感想を持つに違いない。

 薄暗い部屋に灯る幾つもの蝋燭。まるでこの世の果てまで続いているのではないか。そう思わせるほどにどこまでも長く続いている。

 そして何よりも異常なのは、間違いなくここにある無数の本だ。

 世界中の本を集めるとこれくらいになるのだろうか。いや、上にも横にも果ての見えない並んだ本を見るに、それ以上の数はありそうだ。

 これだけなら、ただ不気味な場所で終わりかもしれない。

 しかし真に異常なのは本の数ではなく、本そのものから溢れ出るもの。

 たとえば喜び、たとえば怒り、悲しみ、苦しみ、憎しみ、恐怖、未練、愛。

 そういった様々な感情が、本一冊一冊からひしひしと伝わってくるのだ。

 この禍々しい空間に迷い込んだなら、普通の人間はどれほど耐えていられるだろうか。

 そう、こんな空間で優雅にお茶を嗜もうとしているこの男もまた、異常なのだ。


「ようこそおいで下さいました。貴方が来るのを心よりお待ちしていましたよ」


 まるでここに一人、あらかじめ迷い込むのが分かっていたような口振りだ。


「本日は大切なお客様が来られると気合を入れていたのはいいのですが、少し目を離した隙にページが数枚お客様に惹かれたようで。来て早々ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんね」


 そう言いながら振り向いた男の顔を見て寒気を感じた。

 優しい声色と丁寧な口調ではあるが、顔にピエロの様な仮面で隠された表情からは、彼が何を考え、どんな気持ちでいるのかがまったく読むことができない。

 

「まずは……心より感謝を」


 男は綺麗な姿勢で腰を折り、頭を下げた。


「私はここの管理人。物語を管理し、お見せすることが私の願いだったのですが、人が来なくては管理はできてもお見せすることはできません。まぁその管理すら先程はできていなかったのですがね、はははっ」


 頭を上げて自虐的に笑うその姿も、表情が読めなければ不気味でしかない。


「準備はできましたので、遠慮せずお掛け下さい」


 そう言って男が指を鳴らすと、何故かお茶会の用意をしていた長机テーブルの椅子に座っていた。

 まるで訳がわからない。いったいどういった手品なのか。

 ただでさえ不気味な空間の中、薄気味悪く笑う道化の仮面を被り、その上摩訶不思議な手品を使うのは勘弁願いたいものだ。薄気味悪くてしょうがない。

 というよりも、どうして自分はここにいるのか。さっきまで確かに――

 

「おや、気になりますかな?」


 思考を遮るように声を割って入れた男は、長机テーブルの上に置かれた大きな盤、その上に並ぶ数多の駒の内の一つを手に取ると、掌でそれを転がしながら盤上を見つめた。


神戯じんぎの一つ、神々の黄昏ラグナレク。外界でいうところの運命の朔望フェータルオルタ。いえ、内界の駒戦チェスと言ったほうが理解しやすいでしょうか。駒戦チェスという遊戯は、元々この神々の黄昏ラグナレクと呼ばれる神遊が大きく簡略化されたものなんですよ」


 確かに駒戦チェスに比べ、ここに並ぶ駒の数は圧倒的に多い。

 これでは、いつまで経っても勝負がつかないのではないかと思わせるほどだ。

 そもそもこれだけの数の駒の動きを把握し、相手の手を読むなど、まともな思考の人間では満足に遊ぶこともできないだろう。

 が、その上でこの盤上に並ぶ駒の配置を見るに、この局はもうすでに詰んでいるのだと理解することができた。

 いわゆる、終局チェックメイトというやつだ。

 盤上に並ぶ駒の数の差は圧倒的と言うのもおこがましい。片方の王冠を模した単騎の駒は、すでに違う色の駒に囲まれている。

 どう動けばこういった形に持っていけるのだろう。単に適当に動かしていただけなのか、それとも特殊なルールでもあるのだろうか。


「チェック」


 その言葉に、違和感を感じたのは無理もない。

 男は手にした駒で冠を模した駒を転がしたのだ。普通ならすでに終局のはず。

 転がした駒を手に取ると、男はそれを脇へと避けながら、仮面の奥で小さな笑みを零した。


「ふふっ、気になりますか? いえいえ、この対局のことではなく、先ほど貴方が見た物語の光景です」


 ふと、先に見た情景を思い返した。

 桜色の花弁のような雪が舞う景色の中、小さく響いた儚い音色。

 和服に近い黒の衣装に身を包み、黒に鮮やかな白と紅の模様の入った刀を腰に携えていた男。そして、琥珀のような瞳に雫を浮かべた少女。

 確かに気にならないといえば嘘になる。


「貴方が先ほど見た光景は、物語のほんの一部にすぎません」


 男が杖を床に軽く打ち付けると幾つもの本が宙を舞い、男の周りに集まってくる。

 本当に不思議な光景ではあるが、最早これでは驚くまい。

 ただ頭の中を整理しようにも、今の状況も目の前の光景も、何一つ理解の範疇を越え切っている。とはいえ、問いかけるにも声はでないのだが。

 置かれた状況の説明が何一つされないまま、男は静かに問いかけた。


「人が生まれた時、平等に持っているものが何かご存知ですか?」


 平等、というのは難しい問題だ。

 脳、体、命の長さ、環境、そのすべてにおいてまったく同じはありえない。

 生まれながらにして人は平等ではなく、死に方すら望んだものを手にできない中、命あるものすべてにいずれ死が訪れるという逃れようのない事実だけが真に平等だといえるだろう。

 が、男は……


「種です」


 よくわからないことを口にした。


「人は誰しも命の中に、すべての感情の種を持って生まれてくるのです。どの感情の種が発芽し、成長し、花開くに至るかは、当然その人の置かれた環境によって変わりはしますがね」


 言って、男が掌を上に向けながら片手を軽く伸ばすと、集まってきた様々な色を宿した本がまるで輪のようになり、ゆっくりと回り始めた。


「喜び、怒り、哀しみ、楽しさ、憎しみ、そして愛……。まだ種しか持たない赤子は一人では何もできず、周りの者たちに様々な色の水を注がれて、自分だけの花園をその心に作り出す。こうして私の言葉を聞いている貴方も、そこに至るまでたくさんの水を得たことでしょう。貴方の心の花園には、どんな花が咲いているのでしょうか?」

 

 と言われても、正直なところよくわからない。

 生きている以上、ありとあらゆる感情を得ているのだから、男の言葉に合わせるのなら、多種多様の花々が咲き乱れていることだろう。


「心の花園は歩んだ物語の軌跡。負の感情の花よりも、美しく鮮やかな花々が多く咲いているなら私も嬉しいのですが……。それはつまり、今の貴方が幸せであることの証ですからね」


 そう、仮面の奥で男が小さく微笑んだような気がした。


「ですが綺麗な花ばかりを咲かせるというのも、なかなかどうして難しいものです。それが平和な世ではなく、争いの絶えない世ならなおのこと。そして過剰な水を得てしまう。憤怒、暴食、嫉妬、傲慢、強欲、色欲、怠惰、そして……狂信と欺瞞。誰もが当たり前に持つ感情も、高まりすぎれば罪となるのです」


 こつん、と杖を鳴らすと、浮遊していた本が棚へと戻っていった。

 何度見ても仕掛けがわからない。

 といよりも、この仮面の男はいったいなんの話をしているのか。


「貴方は後悔をしたことがありますか?」


 当たり前だ。

 この世で後悔のない者といえば、物心のつかない赤子くらいなものだろう。

 幼い子供ですら、あのときこうしていたらという感情はあるはずだ。ただ、その感情が後悔という名であることを知らないだけで。


「貴方は幸福と不幸を感じたことがありますか?」


 それも当然だろう。

 今がただ無気力に漫然として生きるだけの生活で、そのどちらにも属さないのだとしても、これまで生きてきた中でほんの一度くらいはそれらを感じたことはあるはずだ。幸せの中、不幸が埋もれ、不幸の中、幸せが埋もれ、無気力の中、その両方が埋もれていたとしても、それはきっと忘れているだけに過ぎない。


「自分の欲求が満たされたときに現れる感情を幸せというのなら、それは当然人それぞれに違うものなのでしょう。何が幸せなのかは自分自身で決めるものであり、他人の幸せが同じものとは限りません。しかしこの世界がもうすぐ滅びてしまうのだとして、仮にそれを救えるのだとしたら……その救いは万人にとっての幸せに成り得るのでしょうか」


 争い、というものの大きさは解釈によって違うが、戦争という規模の命を奪い合う争いを思えば、男のいうことも理解はできるかもしれない。

 不幸という形は人によって違い、それを本当の意味で理解できるのは、同じ不幸を背負った者だけだろう。

 だが、同じものを背負っても、それを不幸と思わない者もいる。

 それでも戦争だけは……無慈悲に、理不尽に、命を奪い合うその行為は、そのすべてをあっけなく一瞬にして奪い去る。万人にとっての不幸の形だ。

 戦争の中で生まれ、その時代しか知らない者はそれが当然だと感じていたのだろうか。だが、戦争が終わればその胸を満たすのは、紛れもなく幸福だろう。

 平和の中で生まれ、その時代しか知らない者はそれを当然だと思っていたのだろうか。だが、平和が終わればその胸を満たすのは、紛れもなく未練だろう。

 ならば、万人にとっての幸せとは――


「幸せとは人によって形を変え、他者が押し付けるものではありません。そんな形なきものを、誰もが求めて止まない。そんな中、この世界の神様はこう考えたのです。争いのない世界で未来がある。ただそれだけで、本当は幸せではないのかと。故に神様は戦いました。戦って戦って戦い続けて……志半ばでその命を散らしてしまいます。それならば世界の未来を想い、誰かの幸せを願い続けたその神様は……果たして救われたのでしょうか?」


 シルクハットのつばを少し下げながらそう言った男は、仮面を付けていてもわかるほどにどこか寂し気な雰囲気を滲ませていた。

 が、それを振り払うように顔を上げ、先程と同じように杖を軽く床に打ち付けると、次に現れたのは大きな丸い水晶だ。透き通った水晶の中が、まるで何かを注ぎこまれたかのように、だんだんと白ずんでいく。そしてすぐに雲を抜けたような景色に変わると、水晶に映し出さていたのは綺麗な教会のような建物だった。

 次にその建物の中の景色に変わると、巨大な像の前に一人の女性が立っている。

 その像を見上げるその姿は心を一瞬にして奪われるほど絵になり、しかし、その胸に抱いているであろう感情はおそらく悲しみだった。


「私はただ真実をお見せするだけ。語り部は彼女にお任せしましょう」


 甘い香りのする紅茶を丸机テーブルに置きながらそう言った男の言葉も、この空間の異常さすらもいつしか感じなくなり、ただただその水晶に映し出された光景に目を奪われていた。



 ……――――――――――


 教会のような建物の中、静かに立ち尽くす一人の少女。

 ゆったりとした袖のついた裾の長い黒のトゥニカ。頭にはベールのついたウィンプル。いわゆる修道服に身を包み、少女は憂いを帯びた表情を浮かべていた。

 その優し気で美しい瞳が捉えて離さないのは、目の前にある一つの大きな像だ。

 何故教会のような建物であって教会ではないのか。その理由はこの像にある。

 なにせこの像の反面は天使のような優しさを帯びているのに対し、もう反面はまるで悪魔のような恐怖を感じさせるものだった。

 教会に半分天使で半分悪魔の像なんてものがあるかと聞かれると、当然答えはNOノーだろう。なら、この教会のような建物はいったいなんなのか。


「ねぇお姉ちゃん。お姉ちゃんってば!」

「あっ、なに?」

「もぉ~……さっきから呼んでるのに~」


 何度か呼ばれて隣を見ると、小さな女の子がたっぷりと頬を膨らませていた。

 どうやら少女は目の前の像に気を取られ、女の子の呼び声に気付かなかったらしい。

 少女は申し訳なさそうに苦笑すると、


「ごめんなさい、少しぼんやりしてたみたいね」

「お姉ちゃんって見た目はシッカリさんなのに、たまにそんなとこあるよね」

「だ、だめだよ姉様。そんな風にいっちゃ」


 女の子の少し後ろで注意を促したのは、同じ年くらいに見えるおどおどとした様子の男の子だった。

 姉様、と呼んでいるからには姉弟きょうだいなのだろう。


「いいじゃない、本当のことでしょ」

「もう……また母様に怒られちゃうよ?」

「うっ……」

「いいのよ、私が悪かったから。ごめんね」


 バツの悪そうに顔を顰めた女の子をフォローし、少女は申し訳なさそうに声をかけながら少女の頭を優しく撫でた。

 女の子は少し頬を染めながらくすぐったそうに身を縮めると、少女の隣に立って目の前の像を見上げた。


「これがディザイア様?」

「大きいね……」


 男の子が感嘆の声を漏らしながら女の子とは反対側に立つと、


「えぇそうよ。貴方たちにはどう見える?」

「う~ん、怖い。でもなんか、怖いけど優しい感じがする。パパ様みたい」

「僕も姉様と同じ……かな」


 それを聞いた女性は小さく微笑んだ。


「ディザイアはね、とても偉大な神様なの。たくさんの力で、たくさんのものを護ってくれたのよ」

「それくらい知ってるわ。とても有名な話で誰でも知ってるもの。私だってディザイア様は大好きだし」

「みんなに好かれるすごい神様だもんね。父様も僕に、ディザイア様はすごいんだって言ってた。僕もね、大好き」


 笑顔で話すその姿から、本当にこの神様が大好きなのだと伝わってくる。


「……確かに凄いわよね。でも本当はね、私はあまり好きじゃないの」

「わっ、そんな事言って罰が当たっても知らないんだから!」


 少女の表情は哀愁に満ちていたが、幼い子供たちはそれに気づくこともなく、驚いた顔で少女を見上げている。

 少女の言葉がそれほど予想外だったということだろう。


「どうしてお姉ちゃんはディザイア様が嫌いなの? 世界を救ったイダイな神様なんでしょ?」


 声を上げた姉に続き、男の子は不思議そうに首を傾げながら問いかけた。

 すると少女は大きな像を見つめたまま、


「独り……だったからかな」


 弱々しい声でそう言った。


「今じゃみんなが大好きな神様なのに、そのときの神様にはお友達がいなかったのかな?」

「半分が悪魔みたいに怖いからじゃない?」


 寂しそうに呟いた弟に対して冷たい言葉を投げる姉。

 しかし、おどおどとした表情を不満げに歪めながら、男の子は言葉を返した。


「み、見た目だけで仲間外れにしたら駄目なんだよ?」

「ふん、私だってわかってるわよそんなこと」


 腕を組みながら鼻を鳴らし、女の子は弟から視線を逸らす。

 そして二人は目の前の巨大な像へと揺れる瞳を戻した。

 無意識に、そっと隣にいる少女の手を握ると、どうしてそう感じたのか自分でも理解できない感情が幼い二人の胸を満たす。

 二人はその感情を知っていた。

 だが、会ったこともない神様のために、つい涙が零れ落ちそうになるが理由が二人にはわからなかったのだ。


「そんな半分悪魔みたいに怖い神様にも友達……いえ、仲間はたくさんいたわ。多くの仲間がディザイアを信じ、そして愛していた」

「じゃあなんでディザイア様は独りぼっちだったの? ていうか、世界を救ったイダイな神様なのになんで半分悪魔なの? おかしいじゃない」


 納得のいかない様子の女の子に、少女は優しい声で語りかける。


「ディザイアはね……許せなかったの」

「なにを?」

「貴方たちみたいな子から、笑顔を奪うこの世界が」

「みんなのため?」

「そう……でもね、すべての蕾が笑顔の花を開かせることはできなかった。同じ環境の中ですべての花が蕾を開くことができないなんて、当たり前のことなのにね」

「ディザイア様はサクラを知らなかったのかな? サクラが咲けば、みんな笑顔になるんだよ? 父様が言ってた」

「でも私はサクラなんて嫌いよ。そう言ってたパパ様だって、サクラを見ると悲しそうな顔するんだもの」


 自分の父へと不満を零し、頬を膨らませた女の子に少女は小さく苦笑した。


「それはね、ディザイアにも知らない花の種があったからよ」

「なんの種?」

「……愛」

「イダイな神様なのに、そんなのも知らなかったの? 私は知ってるわよ。ママ様もパパ様もお姉ちゃんもみんな大好きだもん」

「ぼ、僕も」

 

 少女の腕に女の子が抱き着くと、男の子も少し遠慮しがちに抱き着いた。

 寂しそうな表情を浮かべていた少女を見上げ、とても可愛らしい笑顔を見せる。

 両腕にかかる重みを噛み締めるように少女は目を閉じると、すっと吸い込んだ息を深く吐き出し、再び開いた双眸で目の前の像を見つめた。そして……


「この神様のお話聞きたい? とても長いお話になるけど」

「聞きたい!」

「ぼ、僕も聞きたい!」

「今日家を出るとき、パパ様がお姉ちゃんなら教えてくれるって言ってたの」

「そ、そうなの……ははっ……」


 半ば予想できた二人の即答を前に、少女は乾いた笑みを零しながら二人の父親の顔を思い浮かべた。

 自分が物語を語って聞かせるのが苦手だからといって、他人にぶん投げるのは如何なものか。とはいえ、少女自身も語って聞かせるつもりでいたのだが、それを読まれた上で二人を預けたのなら少し癪だ。

 少女は幼い二人の手を引きながら横長の椅子へ移動し、腰を下ろすと、


「どこから話そうかしら。まずはそうね……貴方たちも知ってる運命の枝クライシスデイ。今から十年前――」


 そうして少女は語りだす。

 気の遠くなるような長い長い物語。

 そのほんの数ページ。

 それでも長い、愚かな神様の物語を。

 

 ……――――――――――



「いよいよ始まりますね。気分だけでもと用意したお茶も、すっかり冷めてしまいましたが……ふふっ、興味を持っていただけたならなにより」


 男が杖を振り上げると周囲を漂っていた本達が様々な色に発光し、ぱらぱらと凄い勢いでめくれながら、そのページが次々に宙へと舞い踊る。


「人にはそれぞれその人の物語があります。そして誰しもが、その物語の主人公。そう、ここは人の人生という名の物語を管理する場所」


 この空間の中でのその光景はとても不気味であると同時に、とても言葉には言い表せないほどに神秘的だった。


「当然、物語の結末は様々です。どれだけ幸せな結末を望んでも、望んだ結末になるとは限りらない。幸せはいつだって、悲しい結末を迎える為のプロローグに過ぎないのかもしれません」


 数多の本やページが宙を舞う中、一冊の分厚い本がその中央で、一際強い光を放った。


「命を懸けても変えられない運命がある。人生のすべてを投げうってでも叶えられない願いがある。それでも、変えたい運命があったのです。それでも、叶えたい願いがあったのです」


 タイトルも何もない黒い表紙に、じわじわと焼け付く刻印のように、タイトルと思しきものが浮かび上がっていく。

 

 ―― ReGret Only Days 「後悔だけの日々」


「ジパング、桜歴おうれき五二一〇年文月ふみづき七日。長い物語の起源といえばそこになるでしょう。ですが、その物語をお見せできるだけの力が私にはありません。ですからこれは、長い長い物語のほんの一部」


 途端、勢いよく本が開くと同時に、意識が吸い込まれるような感覚に見舞われた。

 何も状況を把握できないまま遠のいていく意識の中、聞こえる複数の足音。

 中には甲冑を着ているような音も紛れているが、おそらく五、六人。

 振り返ることもできず、本の放つ眩い光に包まれていると、聞こえたのは目の前にいるはずの男の声とは違う、明らかに女性の声だった。


「一人の弱者がいました」


「一人の臆病者がいました」


「一人の宿命を背負った者がいました」



 そう……


 これは英雄えいゆうの物語ではない。

 これはあいを貫く物語でもない。

 これは運命うんめいを砕く一人の救世主ぐしゃの物語。



「この物語を見た先で、聞かせてください」


 ――此の神の選択が、過ちだったのか否かを


 完全に意識が途切れる寸前、最後に男が何かを口にしたような……そんな気がした。


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