第3話…接吻《キス》…

海からの帰り道、先を歩くトオルが不意にその歩を緩めた。「僕」は、それを合図とトオルの横に並んだ。トオルは此方コチラを向かなかったけれど、何かしら言いたいことがあるのを「僕」は解っていた。余程言いにくいのかトオルはしばらくの間、休暇の予定や部活の話しなんかしてたっけ。どうでもいいような話も途切れて、再び沈黙が訪れた。


「カズ…相沢アイザワ……相沢アイザワさん解るだろ?」


ドキリとした。相沢 灯アイザワ アカリ、トオルと同じ陸上部の女子部員。トオルの口から名前が出て来てもおかしくは無い。が、今の「僕」には後ろ暗いところがあった。いや…トオルに断るようなことでも無いが…。

これまでなんでも話して来た間柄のトオルに、話していないことがあった。


5月の連休開けの頃、美術部の「僕」はコンクールに向けて作品の題材を探していた。グラウンドで1人走るアカリさんを見かけ、声をかけた。速さを求めて、ひたすらに自主練に励んでいた彼女。真っ直ぐ前を見据え、風を受けて走る姿から「僕」は目が離せなくなっていた。モデルを依頼すると少し考えて、恥ずかしそうにしながら


「練習の邪魔をしないなら…」


と了承してくれた。「僕」は毎日グラウンドに通い、デッサンを重ねた。勿論そのことは、トオルも知ってた。トオルが知らないのは、その後のこと。


放課後の美術室でキャンパスに向かっていた時、彼女が訪ねて来た。他の部員は皆帰宅した後で、美術室には「僕」しかいなかった。


「今日、グラウンド来なかったね」

「あっごめん。今日は、キャンパスに描かなきゃいけなくて…トオルに伝言頼んでたけど、聞いてなかった?」

「ううん、聞いてた…でも、もしかしたらって思って」

「そっか、なんかごめんね」

「ううん……ね、これ私?」

「う、うん……あんまり上手く描けてないけど」

「そう?凄いよ、こんな風に描けるんだね!」

「まだまだ、だよ…高木タカギ先生に言わせれば…」

『もっと!もっとだ!ピカソになれ!』


2人の声が重なり「僕」らは、同時に吹き出していた。高木タカギ先生は、美術部の男性顧問で「ピカソになれ!」が口癖。

お互いの口真似やタイミングがあまりにピッタリで、可笑しくて仕方がなかった。


「あっ!」


彼女がキャンパスに触れようと伸ばした手を、「僕」は止めようとして思わず握ってしまった。


「……触っちゃいけなかった?」

「いや…絵の具乾いてないから…汚れちゃうし…なんか…その、ごめん」

「ううん、ごめん、謝らせてばかりだね」

「そんなこと、ないけど…」

「まだ、描くの?」

「もう少しだけ」

「近くで見ていい?」

「うん」


アカリさんは、「僕」の直ぐ横に椅子を持って来て座る。美術室には、筆の音だけが響く。外の帰宅していく学生の声や車の音なんかが、妙に遠くに聞こえた。普段交流のない女子と2人きりなんて初めてだった。


「やっぱ、凄いよ……絵の中の私、生きてる見たい…」

「それは、褒めすぎ」


笑って彼女を見ると、アカリさんは真っ直ぐ「僕」を見ていた。彼女の手が「僕」の両頬を優しく包み込む。


時任トキトウさんの眼、茶色なんだね…カラコン?」

「生まれつきだけど…」

「へぇ、綺麗」


アカリさんの眼がじっと「僕」を見つめたまま顔が目前まで迫る。心臓が高鳴り、鼓動が外に聞こえるんじゃないかと思うほどだった。逃げ出したい気持ちになりながら、身動きひとつ出来ずにいた。

彼女の長いまつ毛が、ゆっくりと降りて瞳を閉じた。柔らかな感触が唇にあたり、制汗剤なのかシャンプーなのか、柑橘系の優しい香りが鼻をくすぐる。

何が起こったのか、理解するまでにしばらく掛かった。長い時間そうしていた気もするけど、実際には一瞬のことだったと思う。

「僕」から離れたアカリさんは、頬を赤らめながら笑って


「内緒ね」


と囁いた。

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