第2話

「伊藤ぅー」「はーい」「霧島ぁー」「はいー」「中山ぁー」「はいはーい」

 広すぎる教室に、間延びした声が響いている。四十人いたクラスメイトも、今では十人未満。もう一人も残っていないクラスもある。これでも多い方だ。

 わたしたちのクラスの教師はいなくなったから、大人代わりの学級委員長の女子が教壇の上で取り仕切る。


「それでは、今日も一限から四限までは自習です。五限と六限にはわたしが自作した小テストを行ってもらいます」


 そう言い切る彼女は心持は完全に大人代わりとなっているのか、彼女はその後も教卓を陣取り続ける。クラスメイトのみんなはそんな彼女を気にせず、思い思いのことをする。

 勿論、わたしもだ。窓際の席に移動して、窓の向こうの空を見上げて物思いにふける。といっても、考える内容は先輩のことくらいだ。先輩も自習だろう。先輩はどう過ごしているだろうか。

 まだ一限なのに、先輩のことを考えていたらお腹が空いてきた。流石に早すぎる。思考を止めたい。止まらない。思って止まるものではない。

 朝のことを思い出す。口いっぱいに先輩の味が広がる。血の味。肉の食感。内臓の苦み。そのどれもが鮮明に思い返せる。唾液がとめどなく溢れる。

 先輩を食べるまでは、あんなものがあるなんて知らなかった。知らないまま死ななくてよかった。もうあの味なしでは生きられない。

 思考の最中、視界の端に、黒い煙が立ち上っているのが見えた。

 目を向けた先の校庭で、誰かが火をつけている。火を複数の男女が囲んでいる。キャンプファイヤーには日が高すぎる。見知らぬ男女が火に近づいていく。

 ゆらゆら、ゆらゆらと蝶のように揺れて、蛾のように飛び込んだ。燃えてからも彼らは躍る。手をつないだまま、抱き着いたまま、地面に転がり躍る。やがて丸くなって終わる。

 そういえば、と気付く。わたしは今まで、いつも先輩のことは生で食べているけど、他にもっとおいしい食べ方はあるんじゃないだろうか。

 炙ったり、煮たり、蒸したり。冷やすのも試す価値はあるだろう。部位によって調理方法も異なるだろう。

 居ても立っても居られなくなり、席を立つ。学級委員長に近づく。


「自習時間に、図書室に行ってもいいですか?」

「……いいですが、五限には教室に戻って来てくださいね」


 でないと、殺しますから。などと物騒なことを言われる。名前も覚えていないが、昔はもっとおどおどした子だった。人は変わるものなのだと感慨深い。

 図書館には、既にまばらに生徒がいた。本の山に囲まれた彼らは、新たな侵入者に一瞥もよこさず本を読み続ける。わたしも気にせず本の間をすり抜けていく。

 レシピ本。肉の加工法。料理の歴史。食の雑学。テーブルマナー。分子化学。カニバリズム。

 ひと際大きな鐘が鳴って、昼休みになったことに気づく。本に夢中になりすぎた。これではお昼ご飯に遅れてしまう。

 昼飯を食べるために、わたしは校内の格技場に向かう。昔は剣道部や柔道部が使っていたが、今では利用者はわたしと先輩と、それともう一人だけ。

 図書室から格技場までの距離は遠い。おまけにわたしはお腹ぺこぺこだ。予想通りわたしは間に合わなかった。開け放たれたままの扉を潜ると、首だけの先輩と目が合う。

 先輩は、組み立て前の人形のような姿になっていた。今日は彼女は随分と堪能したようだ。

 道場の中心に立つ彼女が、こちらに気づいて大きく手を振ってくる。


「おお、君、今日は遅かったな!」


 剣道着に身を包み、ポニーテールを揺らすこの女はわたしの二つ上の三年生だ。

 わたしとしてはあまり関わりたくない。先輩にも関わってほしくない。でも交友関係にあまり口を出してしまうと、先輩に嫌われてしまうかもしれない。

 それは、嫌だ。だから、仕方なく我慢する。


「わたしも人のこと言えませんけど、もう少し待っていて欲しかったですね」

「うん、それは無理な相談だ! 私は彼のことが好きだからな!」


 彼女は笑顔でそう言って、刀を振るう。床に転がる先輩の手から、指が外れていく。先輩の血が付いた刃を、肉の断面を、転がる先輩を、頭のおかしい女はうっとりと眺めている。

 何度見ても理解できない。眺めるだけで、傷つけるだけで、何が満たされるというのだろう。

 わたしは先輩の指を拾い、口に含んでしゃぶる。うん、いつも通りだ。

 解体されているぶん、朝のように、直接食べるより食べやすい。あの女が斬った事実が癪だけど、先輩に罪はない。

 バラ肉となった先輩を、手づかみで食べていると女と視線が合う。


「なんですか。欲しいんですか。だめですよ。これはわたしのです。あげませんよ」

「いらんよ。私はお前みたいに人を食うような趣味はないからな。この食人嗜好者め」


 まるで蔑むように言ってくる。人斬りの分際で何を言うのか。だいたい、学校に刀を持ってくるなんてまともではない。

 睨みつけるが、彼女はどこ吹く風と刀についた先輩を拭う。

 でも、もっと理解できないのは、先輩をいらないと言ったことだ。先輩はわたしのだけど、それでもいらないだなんて、信じられない。


「……念のため、改めて言いますけど、わたしは別に、貴女の趣味についてとやかく言いません。だから貴方も、わたしと先輩の仲に口出ししないでください」

「構わんとも。お前とわたしの欲求は重ならない。私が私で、お前がお前である限り、何もしないさ」

「……わたしは、わたしです」

「そうだ、お前はお前だ。そうあることを、私も、そしてこいつもきっと望んでいるよ」


 足元の先輩を見下ろして、煙に巻くような台詞を言う。知ったような口を利く。この女のこういうところも、わたしは嫌いだ。


「ああ、そういえば、ライターとか、ガスコンロとか持ってませんか?」

「ガスコンロなら確か部室にあったが……焼身自殺は他所でやってくれよ」

「私をなんだと思ってるんですか。頼まれてでもやりません」


 渡されたガスコンロで、薄切りにされた先輩を炙る。肉の焼ける、香ばしい匂いがする。

 口に含む。いつもとは違った味。いつもとは違う先輩。だけれども、変わらないものもある。

 わたしの先輩は、こんなにもおいしい。

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