せんぱいは、おいしい

大宮コウ

第1話

 ストレッチ。ジョギング。そして、先輩の家に行くこと。

 以上三つが、わたしの朝の日課だ。これをやらないと、一日が始まった気がしない。身体の調子がおかしくなってしまう。とりわけ大事なのが三つ目だ。これは人に頼まれたことだから、なおさら欠かすことができない。

 わたしの家の一つ隣。一戸建ての先輩の家に、貰った合鍵を使ってお邪魔する。靴を並べなおして、二段飛ばしに階段を駆け上がる。先輩の家には両親はいない。遠慮をする必要もない。


「せんぱーい! 朝ですよ! 先輩のかわいい後輩が起こしに来ましたよ!」


 力強く部屋の扉を開いて叫ぶ――けれども、部屋のベッドの毛布の蓑虫は、変わらず規則的に上下している。

 いつものことだ。出会ったときからそうだった。朝早くに、自分一人で起きることのできない、仕方のない先輩なのだ。だからわたしは、先輩のご両親に頼まれたのだ。


「せんぱぁい、起きてくださいよぉ」


 布団を揺する。起きない。もっと揺する。全然起きない。

 毛布を引っぺがす。上半身裸で仰向けに眠り続ける先輩が出てきた。

 こうしてわたしに起こされることが分かっているのに、こんな姿で寝るこの人は、警戒心と恥じらいがなさすぎるのではないかと思う。

 いつまで経っても見慣れることのない、その姿。また、胸がどきどきしてきた。帰宅部のくせにやけについた腹筋。その上にある主張の激しい胸筋。あるいは、しなやかな上腕。

 よだれがでてしまう。いや、事実垂れてしまっていた。すぐに袖で拭う。

 ぐぅ、と情けない音がお腹から出てきた。先輩はまだ寝息を立てている。はしたない姿を見られていないことに安堵する。

 先輩が起きないのなら、仕方がない。先輩が寝たままなのは不本意だけど、朝の日課を済ませなければならない。

 先輩の布団の上に上がる。先輩の上に馬乗りになる。しなだれかかるように、先輩にのしかかる。

 胸に耳を当てる。どくん、どくんと音が聞こえる。先輩の鼓動が聞こえてくる。

 こんな風に密着しても、先輩が起きる様子はない。いろいろと、鈍感にもほどがある。仕方のない先輩だ。だからこれも、仕方のないことなのだ。


「先輩が、いけないんですよ」


 よだれが、口から、零れ出る。先輩の身体に落ちたが、もう気にならない。

 先輩の逞しい体も、かっこよすぎない顔も、鈍いところも嫌いじゃない。

 だけれども、一番好きなのは先輩のまっしろなすべすべの首。

 白いそれに、おそるおそる、かぶりつく。

 そして、強く、強く――

 血が視界に広がる。誰かの声が聞こえた気がした。けれどもわたしの頭は視界と同じく真っ赤に染まって何も聞き取れやしない。頭がぼうっとして聞き取れやしない。空腹感に任せて首を、あるいは首以外にもかぶりつく。何かがわたしを押しのけようとする。興奮する。興奮してもっとかぶりつく。踊り食いだ。頬、腕、わき腹、内臓。色んな味や食感が口いっぱいに広がる。闘争本能か、食欲あるいは性欲かもしれない。わたしにはどれなのか分からない。分からなくても、おいしいものはおいしい。原始的な欲求に身を任せてわたしは先輩を食べる。運動してお腹を空かせて待ち望んでいた朝ご飯を食べる。ご飯を食べるとお腹が満たされる。先輩を食べるとお腹じゃない何かが満たされる。

 満たされたわたしの前にあるのは、先輩の死体。

 そこでわたしはハッとして、ベッドから下りる。そして自分の服を確認する。ジャージは先輩色に染められてしまっていた。こんな服じゃ、恥ずかしくて外にも出られない。

 またやってしまった。これで何着目だろう。先輩を前にすると、服が汚れてしまうことなんて頭からすぐに抜けていってしまう。うっかり制服を着てこなかったことが救いか。

 それもこれも、全部先輩が悪いのだ。


「そんな風に、恨めしそうに見られても困るんだけどな」


 恨めし気に見ていれば、先輩は仕方なさそうに笑っていた。いつの間にかTシャツを着ている。汚れなんてない真っ白なTシャツ。


「先輩、起きるのが遅いです。もっと早く起きてください」

「君が起こしに来るのが、早いからだよ」

「朝ごはんを食べる時間だって必要なんですから、仕方ないじゃないですか。それにわたしは先輩のご両親に頼まれているんですよ? それとも、先輩はわたしが起こしに来なくてもいいんですか?」

「それは……困るね。うん、すごく困る」


 権力を振りかざして言い切れば、先輩は反論をやめる。

 先輩は押しに弱い。ちょっとでも目を離せば、きっとすぐに悪い女にたぶらかされてしまう。そうしていつの間にか身ぐるみを剥がされ家財を全部失ってしまうのだ。きっとそうだ。

 というわけで、わたしは今日も先輩を見張らなければならないのだ。


「先輩は、もっとわたしがいるありがたみを噛みしめるべきです。それでは先輩、わたしは朝ご飯を作るので、ゆっくり着替えてから下に来てくださいね」

「ああ、その前にこれ」


 ベッドの下から何かを取り出し、ひょいと投げ渡してくる。受け止める。半透明のビニール袋。このやり取りはもう何度も繰り返してるから、中身は確認せずともわかる。新品のジャージ。


「下で着替えますけど……覗かないでくださいね」

「馬鹿言え。覗きに行ったことなんて、一度もないだろ」

「それはそれで、なんだか不本意な気もします」

「理不尽だなあ」

「女の子は理不尽なものなんです。先輩も、彼女が出来たときの為に、そう思っておいた方がいいですよ」


 先輩は仕方なさそうに微笑む。話半分に聞いているとき、明言を避けるときにする、ずるい笑顔だ。前向きに善処しますとか、検討しますとか、そういう意味。思わずため息が出てしまう。

 わたしが部屋を出る直前、名前で呼び止められる。


「今日も変わらず起こしに来てくれて、ありがとう」

「どういたしまして、です」

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