子供が死ぬことについて。

 おそらく大晦日から正月にかけて会った風邪っぴきの姪にうつされたと思わしき症状も、ようやく全快といったところだ。


 最後の最後は趣味ラジオの収録でとにかくしゃべり倒し草臥くたびれきった声帯を叩き起こすという荒療治まで敢行した。


 それだけでなく、なにやら予後不良というのか不定愁訴というのか、妙な虚脱感や眠気が続くのも仲間内で大騒ぎした翌日には治っていた。


 親戚の集まりで病気にもなるし、また別の集まりで調子が良くなりもする。人というものがまた少々興味深くなる事象であった。


 元来、大人は子供から風邪をうつされて免疫をつけていくものだと思う。


 お子様たちは皆ばい菌だらけの場所に平気で手をつっこみ、その指をしゃぶり、また文字通り道草を食ったりアリを噛み潰したりまた自らの鼻糞を栄養にしたりして気合の入った風邪をひいてくれる。


 そこから横着かつ傍若無人に振る舞われる細菌ウイルス等々の飛沫やらを、私ことおじさんはありがたく頂戴する。そうしてまたひとつ生活や不養生だった部分を観直すことができる。


 それを繰り返して繰り返して、運がよければ健康に死んでいける。突然の即死。ピンピンコロリ。


 我が家系でもそれを成し遂げた人物は少ない。


 病院や養護施設で長い時間を痛みや身体の不全と共に過ごした。ひとおもいには死ねなかった。健康でなければ自殺もできない。


 人としての年輪が多ければ多いほど、体調が崩れたところから死に向かう時間は粘り腰でいやらしく長くなる傾向にあるらしい。


 逆に、幼児の死は突然で、あっけないもののように思える。


 先述した軽い風邪だった姪も、九割九分は平静とほぼ変わらぬ症状に思えるが、ひとたびこじらせ下り坂に転じればその角度は急勾配であろう。たちの悪い肺炎にでもかかればひとたまりもなく死んでしまう。


 子供の死(ここでは他人の子としておこう)を想像したとき、あなたはどう思われるだろうか。


 私は大人の死に比べると少々落ち込みの度合いが深くなるように感じる。


 これは動物的な恐怖とも関係しているのだろうか。子供の死は、単なる同族同胞の死とは多少の毛の色味が違って見える。


 そうはいっても、ここはしかし人として、死は平等に取り扱う必要があるだろう。


 3歳の子が死のうと90歳の方が死のうと、それは同じことだと扱わねばならない。


 さもなければ何か命には価値があり、なにやら人生にはやるべきことがあるかのようになってしまう。


 それがあることが問題なのではない。


 どう考えてもそのような意味や価値など存在しないのに、それがあたかもあるかのように思えてしまうことが問題なのである。


 子供の死をことさらに恐怖するのはおそらく、それが子孫繁栄に有利な心性であるという以上の理由はないと思われる。


 恐怖に理由をあまり求めてはいけない。


 なんとなれば、たとえばただ一個の生命が死んだというだけのことが、その事実以上に重大ごとのように思えてしまうからだ。


 命は、ただそこにあって消えゆくものだ。


 そうでない、ということを私は否定しない。


 ただ、そのことで健康を損なうことを、私は望まない。さきほども申し上げたように、健康でなければ死ぬ自由さえままならないのが我ら人間である。

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