人とかかわりたくないからこそ。
先週はポッドキャストでやっているラジオの収録なのだった。
最低でも月二回は配信するというのをかれこれ一年以上やっている。控えめにいっても個人が趣味でやっているものの割によく続いているものだと思う。
とはいえ目の前にいない人々に向けて喋る難しさを新たにするばかりである。
これでも専門学校ではボーカル科を卒業した身分であるので、声を扱うことに関しては多少の心得があるつもりでいたが、歌うのとはまた少々以上に身体の使い方が違うことを痛感している。
手前味噌だがなんでもやってみてから判断を下すという生真面目さは一貫していると自負している。
ラジオも音楽(シンガーソングライター活動)もそう、小説も就職もだ。
そして、合わないと判断したらあっさりと辞めてきた。
正しくない。
合わない、ではなく続けられない、だ。
私はなんでもやってみる性分であると同時に、もともとなんらやる気が続かない
ある種の自動運転というのか慣性飛行的な状態に持っていけないもの以外は続けられないのである。
すぐに疲れてしまう。
なんとなれば、私が何か新しいことを始めるのは、適応が不可能だと分かっている社会に適応しようとしているからだ。
誰しも、徒労だと分かりきっていることを続けるのは難しい。
難しいから、余計に疲れる。
では、なぜそれを敢えてまだ続けるのか。
結局、人との面倒なかかわりを避け平穏気楽に生きて死ぬためには、逆説的に人と多くかかわっていった方がいいと分かったからだ。
わけが分からないと思われるので説明をする。
あまりに不適応が過ぎた人間には深刻な顔をした人間が集まることになっている。
子供時分にそれは保護者や教師の姿をしており、齢を重ねるごとにそれはだんだんと役所やNPO団体やある種の思想が強い者に変わっていく。
その思想とはつまり「生きていくことには意味があり、人生の目的は幸せになることだ」ということだ。
そんな、私とはもっとも遠い宇宙にいる類の人間と顔を突き合わせるくらいなら、適応した人間の振りをしている方がよほど楽である。
私は放っておいてほしいのだ。
そして、放っておいてもらうにもそれ相応の努力がいるのだと理解し、納得し、また諦めている。
よかろう。
ラジオでは下らないことばかり喋っている。
この世に下らなくないことなどないと思っている私には心地がよい。
だが、『下らない』のはいいが『つまらない』のはいけない。
それでは誰にも聴かれず、存続が危ぶまれる。
仕方がないので『下らないけど面白い』と、そういうふうになるよう研鑽を続けている次第である。
疲れる。
しかし続いている。
上々だと、私は思う。
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