特別なことなど何もない日に。
クリスマスであった。
特に何をしたわけでもないが、ここ二年のパンデミックなどあったせいか皆この日の祝い方を少し忘れてしまったような雰囲気を感じた。
それもあってか、あちこちのデリバリー付き飲食店がパンクしていた。
12月の24,25日にピザなど頼んで届くわけがなかろう。
と、これは関係ないか。
我が家は混みそうな日に混みそうな場所に行くことのない家庭であったから、このあたりの機微が分からない。
クリスマスにピザの出前やフライドチキンのテイクアウトなど家計的特攻と称してもいいだろうに、それを敢えて行う者がいるというのは成人してから知った。
相変わらず物を知らんな私は。
そういう無理を押し通すのも人生の楽しみ方かと納得したのだが。
どうやら多くの人々が「ピザがいつまで立っても届かん」と立腹しているらしい。
分かっていてやっていたのではなかったのか。
興味深い人間のありさまである。
さて平常通り何気なく書き始めた手紙の、ここからが本題である。
スマホを使い始めて一年強になるが、すっかりメモ帳になっている。
観たTV番組(教養・ドキュメンタリー・ドラマ・アニメに至るまで)についてや、読んだ本(小説であれ実用書であれ)の概要と感想、自作曲の歌詞、自作小説の下書き、趣味ラジオの台本など、フリック入力に慣れたらこんなにも早く簡単なのかと老人のように驚いている。
それを読み返すのが空き時間のいい暇つぶしになる。Wi-Fiいらず課金ゲームいらずだ。貧者の娯楽と笑うがいい。私も一緒に笑おう。
ところが先日、いつ書いたのか分からないメモがあった。
『生命』と題されている。少々長いが、そのまま引用する。
≪〇私見
他者の人生や生命をないがしろに扱っておいて、自分と自分の周りのそれだけは意味や価値があるなどと都合のいい考えは通らない。
共感できる人間だけを大切にするならば、知り合いだから死を悼む、助けるというのならば、他者からそう扱われても当然である。
ただ単に他者を殺さずに済んでいる幸運にあずかれなかった人間を責めるわけにはいかない。明日は我が身だ≫
私見とあるからには私が個人的な思いを書いたのであろうが、現状、まったくいつ書いたのかも思い出せない。
頷けるところはある。が、少々書きぶりが厳し過ぎる気がする。なにか嫌なことがあった日に書いたのか。で、嫌なことは割合すぐに忘れてしまうので、書いたことも忘れてしまったのかもしれない。
自分自身について、なにか傲慢なところが出てしまったのだろうか。自省、反省の類に読める。
なぜ私が私の書いた文章について『作者の意図』を推しはかっているのだろうか。
そうやってすぐに忘れてしまうからメモ帳が必要なのだろうに、書いたことまで忘れたのでは、もはや別人Xによる怪文書と違うところがないではないか。
と、また反省会がはじまりそうなところで話を最初に戻す。
私は、クリスマスの超繁忙期に出前を頼んで自分のところだけには届くだろうとは考えない。
別にそう考えたっていいとは思う。特に傲慢などではない。むしろ自己肯定の類だろう。
それでも私はその心に待ったをかけるのだな。
自分を少しでも特別視しそうになるのをある意味では苛烈とも思える考えでもって
やはり、あのメモは私が書いたのだろうな。
それが分かっただけでもよしとしよう。
今晩の夕食はカツ丼とソバ(鴨だし)であった。
イブの夜は唐揚げ定食だ。行きつけの中華屋、客は私しかいなかった。
なんでも、美味ければよいのだ。
頭もスッキリした。
おおむね、いいクリスマスであったといえる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます