今日の波は。

 何事も大仰に構えてしまうと、一度軽く蹴躓けつまづいただけのことが大きな怪我に思えてくる。


 また身内が亡くなった。


 今年に入って二例目なので、私の人生では珍しい事例が立て続けに起こったことになる。


 私は人が死ぬことに動揺しないが、周囲はそうもいかない。


 どうしようもなくどたばたとしてしまって、やっておこうと思ったことができていなかったり、連絡事項が行き届かなかったりと、一日が始まって数時間というところでつまらないミスが積み重なってしまった。


 とはいえ、気分の落ち込みはさほどない。


 昔はこういったことにいちいちがっくりと来ていた。


 自分が十全な人間をやれていない。まさしく大げさな強迫観念に似た気持ちが持ち上がり、ずっとそのことを考えてさらに失敗が増えていく。そのようなことの繰り返しだった。


 まったくつまらない時を過ごしたものだと思う。


 傲慢でもあった。


 我々は現実という海に漂っているしかない存在であるという謙虚さが足りんから、自助努力のごときものを必要以上にありがたがってしまう。


 良い波が来ない日はある。


 手先で何をどう取り繕っても、肝心かなめな現実うみが大シケでは対処のしようがない。


 文字通り強迫観念は『観念』であって『実際』ではない。


「何かをせねばならない」と思った時点で、我々は何かを間違えていると思った方がいい。


 友よ、「幸せにならなければいけない」と思ってはいないだろうか。


 もしくは「不幸になってはいけない」と。


 どちらも不可能だ。


 なんとなれば、幸福も不幸も向こうからやってくるものだからだ。


 能動的に掴み取ったと思ったものは、たまたまやってきた良い波に乗る準備ができていただけのことだ。準備を整えていたのはその人の努力だが、そんなことはおおよそ誰でもやっている。


 海に沈んでいかぬよう、誰もが手足を忙しなく動かし、懸命に現実を漂っている。生きて息をしているという時点で、ひとりとして努力をしていない者などいない。


 そして死が、すべてをさらう。波には逆らえない。私たちは海へと還る。


 この世には、おそらく幸福も不幸もない。


 快楽と苦痛、その不可避の波をコントロールしようとして生まれた観念なのであろう。


 人それぞれの価値観だ。別に否定はしないが。


 大げさだなぁ、と思ってしまうのである。

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