言葉の話
言葉の世界の物語。
昨日は一日曇り空で、雨は降ったり止んだり、夜になってようやく少し涼しくなり過ごしやすかったが、そこに至るまでは気圧も低く蒸し暑く身体もだるく何もしたくない気分にさえなっていた。
しかしライブの予定があったので身体は起こさねばならず、自転車に乗って電車に乗ってさらに15分ほど歩いた先の会場に入らねばならず、歌わねばならず、帰らねばならなかった。
するとどうだろう、明けて今日は空も晴れ、朝から僅かに食べて飲む以外は机に向かい調子よくいろいろと物を書き続け、すっかり良い気分の昼下がりである。
気分とはまさしく気の分である。曖昧なのだ。信に足る感覚ではない。
思えば身体がだるいというのも、無事に歩いたり走ったり歌えたり食えたりしているのだから何かの勘違いであったかもしれない。
生きている私の身体とは、かように適当なものであって、むしろ出不精になりがちな雨の日こそ外に出て何かやってみるべきなのかもしれん。
寝れん、食えん、便秘だ下痢だといった症状が出ていない限りは、気分はさておきまず身体の声を聴くために動く。
でなければ、肉体が観念に飲み込まれてしまう。
幸福/不幸は観念の最たるものだ。我々人間の頭の中にしか存在しない。実際にあるのはその瞬間の快楽や不快感であって、両方ともに時間が経てば自然と消える。人間は幸福であり続けられないし、どのような苦しみも必ず終わるが生きている限り新しいものがやって来ることになっている。
観念、それはつまり言葉の世界なのだが、それらをもてあそぶばかりになると、
観念が肉体を飲み込んだ例として、死が挙げられる。
どのような形であれ、肉体の一部もしくは全部が徹底的に破壊された状態が死である。それはどこまでも実際的かつ肉体的なものであるはずだ。
なのに死は、なぜか観念的な問題であるかのように語られてしまっている。
『死んではいけない』『誰もが生きたいと思える社会』すべて観念で、実現は不可能だ。そんなことが大真面目に語られてしまっている。こういった建前が大事である部分は認めるが、あくまで建前と了解しておかねば、身体が言葉と置き換わり、感じる必要のない余計な苦痛を背負い込むことになる。
とはいえ、言葉の世界で本気で苦しめるのはやはり真面目な人である。
私などのような身体を少し動かせばたちまち元気になってしまう不真面目な人種とは違う。
だが、そう悩んでも欲しくないものである。
言葉は肥大化する。
あまりにも大きくなり過ぎた“死”に押し潰されて自殺したのでは笑い話にもならん。
私は死ぬ。
それはひとりの人間の肉体が滅んだ以上のことではないのだ。
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