我々はあくまで理想と心中するか。

 今日は出がけに短時間の集中的な大雨が降った。


 一瞬10m先の道も見えないほどであったが、結果的に良い洗車になった。


 面白いことに、豪雨といっていい状況だったにも関わらず、隣町に出た途端に止み、アスファルトもほとんど濡れていなかった。


 小さな町の、さらにごく一部の区画に降った集中豪雨のように、こうして涼しい夜風を部屋に入れながら手紙を書いている今も、自分だけに降ったつらい雨に濡れている友がいるのだろう。


 まだ息が続いていれば読んでほしい。


 今日は理想について書く。


 日本国憲法には、こう書かれている。


『すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。』


 すべての国民が『健康で文化的な最低限度の生活』を送れるようにせよと、国家に努力義務を課したと解釈できる。


 これは間違いなく理想だ。そして実現不可能だ。


 もう一つ見てみる。


 WHOの憲章に『健康の定義』が書かれている。


『健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあること(日本WHO協会訳より引用)』


 これもまったくもって実現不可能な理想である。


 この地球上の資源が有限であることや、我ら人間に戦争をやめる程度の品性すら期待できないという事実から目を逸らしていなければ書けない観念に寄った文章である。


 とはいえ、別に理想論を腐そうと思って取り上げたわけではない。


 こうした実現可能性の無い観念的な建前は、持っていて益になることはなくとも、捨て去ればもっとひどいことになると相場が決まっている。


 我々は、こうした“設定”の中で生きることで、どうにかこうにか理性が狂気に陥ることを防いでいる。


 例外規定は、そこを蟻の一穴いっけつとして狂気的な政策をもたらす。


 健康で文化的な最低限度の生活を営むことが『すべての国民』にかかっていることが大事だ。


 健康の定義が精神や社会的な満足さえ網羅していることが大事なのだ。


 そうでなければ、我々はすぐに一部民族の二級市民認定や、障害者や病人の迫害を始めたがる。


 絶対にそうなる。歴史を見れば分かる。


 そういうわけで、我々は現状、理想と心中するのを宿命づけられた生命体となっている。


 回避する道はあるだろうか。


 ひとつだけ思いついたことがある。項を移し、書いてみようと思う。


 今日のところはこのあたりで。

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