意志の強さ/弱さとは何かについての仮説。
二日続けて大雨が降り、今日はようやく晴れの日である。章のタイトルに3つ目の手紙で早くも反しているが、ふと思いついたことができたので書いてしまうこととする。
ヒトの意志の強さとは自己保全力(※)の高さではないか。
要するに「死にたくない」と思う気持ちの強さである。
(※造語であるが意味としては『自己保身』と同義であると思っていただければよい。『保身』には後ろ向きな印象が強いので『保全』の字を換わりにあてた。)
ひとつの仮説として、こんな状況を想定する。
生活のかかった仕事が大変につらい。朝は五時、終業は深夜。残業も多く休みは週に一日しかない。転職したいが技能がなく経験もないので採用されない。ストレスから睡眠不足、運動不足、暴飲暴食をついしてしまう。
そこで、うつ病寸前になりながらなんとか就業を続ける者がいる。遅かれ早かれ何らかの精神疾患になることだろう。
一方、「嫌になった」の一言ですっぱりと辞めてしまう者がいる。次の職が決まったわけでもない。貯金も無い。大した能力も無い。住む家もなくなるかもしれない。どうでもいい。これ以上働きたくないから辞めた。
自己保全力という面で見ると前者は意志が強く後者は弱い。前者は「死にたくない≒自己保全したい」から働き続け、後者は「別に死んでもいい≒自己保全など興味はない」からあっさり辞めたといえる。
ここまではよいが、ここからが問題だ。
後者は明らかに短慮であるが、前者も別に
前者はいずれ心身を外的要因によって壊し、後者はそうなる前に自分から壊した。過程は違えど結果には大した違いはない。
将来の展望という点で見れば、両者とも同程度に未来は無い。
それはつまり、同程度に将来/未来はあるということだ。人間万事塞翁が馬である。過労も突き詰めれば開ける道があるかもしれんし、ホームレス生活が意外と気性にあったりということも無いではないだろう。
同じような環境でどのような道を選ぶか、そこで試される個人の資質―――意志の強弱などその人らの行く末には何の関係もなく、大事なのは何らかのタイミングというか、運でしかないのかもしれない。
私は明らかに“意志が弱い”類の人間である。
今も生きている。
梅雨は近い。
また雨の日に。
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