逆上がりと、紙よりも薄い強迫観念の思い出。

 なんと書き出そうか迷っている自分を発見し、己を笑った。


 無い頭をひねりこねくり回すこと以上に無駄なことはない。


 下手に何を書くか決めてしまうとこうなる。何やら理路の通った文章を書いてやろうと思ってしまう。


 実は当初、いつか半ば以上書き上げた手紙に肉付けする形で書いていたのだが、すべて消して新しく書き直すことにした。


 なにやら役に立つことを書こうとしていた。実に滑稽である。すべてを無意味・無価値と感じている人間が、そのようなものを書けるはずがなかろう。


 やはり、少し油断すると、なにか適応的になろうとしてしまう。


 徹底的に非適応的な人格であるにもかかわらずだ。


「人に伝わる、届く文章を書きたい」という欲求それは確かにある。


 が、それとまったく対消滅する形の「人生における行いはすべては無意味である」という虚しさが同居しているため、出力される文章は結果として酷く薄い。


 これは決して自虐的表現ではないとあらかじめ断っておくが、私の人間性の本質は紙より薄く、風船より軽い。


 何事に対しても真剣みが足らない。


 真剣になっている振りはできるが、と、もうそれ自体が己の軽佻浮薄けいちょうふはくさの表れだ。


 とにかく「やり切る」ことができない子供であった。


 踏み込みが浅いというのか、「できるようになるまでやる」ことが不得手だ。


 そのことに痛痒もあまり感じない。負けず嫌いな性分ではもちろんないし、悔しいという感情もほとんど持つことがない。


 ただ、自分が「十全な人間をやれていない」ことは不安があったし、周りから浮く、もしくは沈んで排斥される恐怖も常にあった。


 逆上がりができなった。


 そういえばと、ふと今思いついたことだ。


 今は筋肉もついているし体重も体脂肪も標準程度なのでひょっとしたらできるかもしれない。どちらでもいい。鉄棒ができないくらいで人は死なない。


 だが、子供時分の私には底の抜けた恐怖が襲っていた。


 逆上がりができないことをもって、私は周囲の人間に殺されてしまうのではないかとさえ思っていた。


 今、あなたは笑っただろうか。


 私は笑った。笑い合えたな、友よ。


 かように笑い事ではあるのだが、そんなところからして私は非適応的であったという話だ。


 しかも、だぞ。


 そんな切羽詰まった感情を抱いていながら、私は特段必死に逆上がりの練習をしたわけでもないのだ。


 友よ、今度こそ笑ったな。


 無論、私も笑ったぞ。なんと薄っぺらい強迫観念であることだろう。


 悩みが悩みにならんのだ、私は。


 そうやって生きてきた。


 死にたいと思ったこともある。


 そんな言葉にさえ、今一つ真剣みがないのだ。


 なので、まだのうのうと生きている。

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