その仕事は「生き残るため」にしているのか。

 リー・チャイルド『葬られた勲章』(※1)で、主人公のジャック・リーチャーが元アルカイダのメンバー―――人質を生きたまま解剖し内臓を外気に晒して死ぬまで眺める残忍な殺し屋たちと対峙し、こう内心で語る。


≪向こうは楽しむために戦うが、私は生きるために戦う≫


 この明快なモノローグが彼我の勝敗を決定づけている。


 修羅場で余計な“遊び”を入れるような連中は勝てないのだ。


 私自身の創作論にも大いに影響を与えている。『勇者狩り』という小説を書いたとき、戦いにいらぬこだわり・怨恨・感傷・サディズムを持ち込む人物は敗北するというバランスを徹底させた。


 人が人を殺すのはすべからず生き残るため行われるべきであって、己の嗜癖を満足させようと思った瞬間にそれはいかにも人間らしい自己正当化の醜さを帯びる、と思っている。


 私には、より野生に近い行為の方が純粋で美しいものだと感ぜられるのだ。


 すべての人間は「生き残るために生きるべき」だとさえ思ってしまう。


 前回、スキゾイド人格は原始的な本能が優位な脳を持った人間のことではないかと妄想を行った。


 この『原始的な脳』を簡単に書くと『ヘビを怖がる脳』である。


 これは実際に科学誌で読んだことなので信憑性がある。太古、ホモサピエンスがサルとして樹上生活を営んでいた頃の天敵がヘビだったため、我らの脳の古い部分にはヘビを恐れる機能がいつまでも残っているというのだ。


 私も、実際にヘビに噛まれた経験も手伝ってかあの爬虫類に出くわしたら回れ右で逃げ出す。テレビや画像どころか想像しただけでも身体が強張る感覚がある。なんなら昨夜見た夢にも出てきて多少どんよりとした気分でさえある。


 本能は臆病なのだ。


 一見、凶暴な本能を理性が抑えていると、それはそれで一面の事実ではあるのだろう。しかしながら見る角度を少し変えれば我ら人類が時に発する『死なばもろとも』のごとき徹底した攻撃性の主人は本能ではありえない。


 古い脳は『自爆テロ』や『特攻』や『抗議の焼身自殺』を編み出せない。


 生き残ることを勘定に入れん仕事は死を畏れ崇め奉る仕草に繋がる。


 私はそれも気に入らない。


 死は死でしかありえない。交通事故も、癌も、老衰も、拷問の果ての衰弱死も、等しく死だ。それ以上の何かであるわけがない。


 わけがないが、我らはそこに優劣というのか物語というのか、なにかそういったものを付け加えたがる。


 恨みを持つ人間を残虐に殺せば、その人の存在の何もかもを棄損してしまえると勘違いする。ただ『死ぬように生まれてきた一人の人間』が予定通り死んだだけのことに、だ。


 過剰な苦しみを与えた死が生むのは、さらに死を神々しくまつり上げる感情のうねりだ。かくしてさらに死は実態から遠ざかる。勘違いは加速し続ける。


 我らはもっと生き残るために生きる方が良いと思う。


 私の性癖に合っているというだけではない。


 仕事など、生き残るためで十分だ。






※1 講談社文庫 訳・青木創

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