虚しさについて

 箱根駅伝を観る正月であった。


 野球日本代表のドキュメンタリーやアメフトの日本選手権なども観た。


 スポーツ観戦趣味の原点を探ると、中学三年生のときに観倒したアテネオリンピックに行き至る。


 受験生が何を呑気に体操男子団体の金メダルに喜んでおるのだと思われるだろうが、当時の私は当時にしてから自分の人生というものに芯からうんざりしていたので、高校受験なども心底どうでもよかった。


 何にもっともうんざりしていたかといえば、私の感性、価値観、ものの考え方だ。


 自分に降りかかるすべてのもの、喜びも苦しみも悲しみも楽しみも、すべてが寒々しく、虚しいとしか感じられない。


 かといって活き活きと生きてみたいわけでもない。


 そうして適応的に活動すると、すぐにどっと疲れてしまう。人生を意味あるものと捉えるのは根本的に自分には向いていない生き方だ。


 徒労だ。いうなれば。


 そして、「人生など徒労だ」などと口を滑らせれば、たちまち大人たちから失笑冷笑叱咤説教が飛んでくることも容易に想像できた。今日こんにちまで続く、他者への基礎的な信頼の欠如はこの時点ですでに今にも咲き誇らんとする蕾であった。


 仕方がないので、(偽)適応の仮面を被り規範に身をたゆたえ流されるままにやってきた。すべては怒られない/叱られないためである。これまたなんと虚しい人生か。


 とはいえ、虚しいのは嫌いではないのだな私は。


 なんとなれば、喜びも楽しみも虚しさを感じる反面、苦しみや痛みもあまり大きくは感じないからだ。


 スポーツでいえば、勝利は虚しく敗北はなんとも思わない。


 しかしながら、観戦となるとどちらも大きく感じる。


 恐らく、自分とは関係の無い話だからだろう。


 (自分では無い)選手が勝って喜んでいるのを観るのは楽しい。


 (自分では無い)選手が負けて悔しく泣いているのを観るのは忍びない。


 自分より他人が喜んでいる方が好きだ、などと書くと、ずいぶんな人格者か聖人のように思われてしまいそうだが、何のことはない、“他人”の価値観に同調してその場限りの適応を繰り返しているに過ぎない。


 長年の偽適応が、私の趣味を作ったといえる。


 私事わたくしごとがすべて虚しいから、他人で暇つぶしをしているのだ。娯楽として消費している。小説や映画のように、だ。


 そう書けば、上手いこと聖人的な振る舞いと中和できていると思うだが、友よ、どう思われるか。

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