明日、誰かが死ぬ今日の手紙。
安楽死―――我々の我々への最終問答。
そういうSF短編が10や20はあるかもしれないが、それは一旦忘れていただき想像してみて欲しい。
60歳になったら必ず安楽死が行われる社会は、どんなものになるだろうか。
もう少し細かく語ろう。
60歳までは全力を尽くして「生きさせる」社会だ。
先天性の障害だろうと、不治の病だろうと、強烈な希死念慮を抱えていようと、
「お前はまだ60じゃないだろう。自殺は許されん」
と、言われる社会だ。
自殺成功者を裁く法律はないが、自殺未遂は重罪である。あっという間に逮捕・投獄・終身刑だ(当然、死刑は全世界的に廃止されている)。
ディストピアだろうか。
ユートピアではなさそうか。
妄想を進めよう。
安楽死というからには、そういった施設で、専門の職員がそれを施すのか。
それは医者と似ているが決定的に違うとされ、苛烈な職種対立が起こるかもしれない。
死に方は、簡単に薬物投与としておこう。
強力な―――それこそ二度と復帰できずそれ自体が安楽死になってしまうのではないかというほどの全身麻酔の後に薬物が注入される。
苦痛もなく死ねるのだが「本当に苦痛が無かったのか証明できない」として常に改良が求められる。不思議と、安楽死施設への反対運動自体はそれほど活発ではないと思われる。そんなことに時間を無駄にしてはいられないからだ。人生は60年しかないのである。
ただし、やはり納得できん層はいるだろう。
安楽死を認めない、租税回避地ならぬ『死亡回避地(デスヘイブン?)』ができるかもしれない(なぜか北朝鮮が容易に想像できてしまう)。そういった場所は高齢社会となり、医療技術が他国より進歩しているかもしれない。
さてはて果たして、どのような理路と説得をもってこの『人生定年法』は達成されたのであろうか。
ある種の哲学か、もしくは経済学が第一世界国家の政治の核たる部分に同時期に深く入り込んだのかもしれない。
もしくは“健康”を至上命題とする考えの果てに「老苦を駆逐する」という思想が主流に立ったか。
いずれにせよ「人間の最大幸福および最小不幸を考えたとき、死を設計することが肝要だ」との結論に至ったのだと思われる。
それは、どこか諦観を帯びた政治的判断になったはずだ。
「我々はどうやら、万人が人生に素晴らしい夢を見られるわけではなさそうだ」と、潔く諦めた。
人生には快楽があり、苦痛がある。
逆かもしれない。
人生の根底には絶対的な苦痛があり、それを糊塗する快楽を求める。
どちらかというと、前者で考えた方が民衆の説得には有利だと思える。
繰り広げてきた妄想は、自作小説のネタにもできそうだが、ここで考えるのは安楽死についてである。
安楽死は、我々がそれぞれに自発的意思で行うには具合が悪いと考える。
苦しみを取り除くための安楽死であるはずが、どこかで線を決めて一斉にやらねばそれがより偏在してしまう。
安楽死は、我々が我々自身に課した最後の課題、最終問答だ。
『神ならぬヒトがヒトをデザインする最終工程』に入ったともいえる。
友よ、あなたはどう答える。
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