人間は歩きたい。
どうやら今年のゴールデンウィークもある種のひきこもり、いわゆる
時事は語るまいと昨年決めたので、これ以上の言及はしない。後世の歴史書に多くの項が割かれるはずの2020年代パンデミックは、私にとっては少々遠い世界の物語だ。
元来、
と、思っていた。
その見当でおおむね間違ってはいないのだが、外に出ることが嫌いなわけではないと最近分かってきたのだ。
真実は、外に出たくないのではなくて、外に出たとして、何をしていいのか分からないから出不精になっていたということだ。
要するに、遊び方を知らんかったわけだ。
その原因は、孤独だろう。
それ自体は、自らの性分と合致する。孤独を苦痛に感じたことはない。
しかし、自然、主なる活動範囲、大袈裟に書けば世界は狭くなる。
一人でできることしかしない。に、加えて、外からの知識を得る機会も少なくなり、自宅にいる時間が長くなっていく。
するとますます日常は内にこもりがちになる循環を始める。悪循環ではなかろうが、日々にダイナミズムが感ぜられないと思ったときに、新しい場所を開拓する能力が減じられていることに気付かされるだろう。
そこに、危機感、などと
いわば、自分に対しての疑いが芽生えた。
自分はインドアな人間であるという風に思い込んでいるが、果たしてそれは真実なのだろうか。
これは自殺に対して考え続ける上でも常にある。
自分に対する、ある意味での不信だ。
生きているのが苦痛なのは、根本のところで自分の性根に嘘をついているのではないか、と思い至ったのが、思索を始めるきっかけでもあった。
命に価値など感じていないのに、人生に意味など無いと思っているのに、それら適応的な価値観に自分を無理やり合わせようとしている。その気付きは、自身への不信がなければたどり着けなかっただろう。
また、いつかその気付きさえ疑い、覆るときがくるかもしれない。
自分はひきこもりも好きだが外出も好きな人間であると分かった。
今はこれで十分だ。
要するに、私はどうしようもなく“人間”であったということなのだろう。
どういうことか。
人間、人類とは何かと問われれば、現時点で「歩く者」と答える。
他のどの生物とも比類なき長距離を歩く能力と、未知の道を開拓する少々無謀ともいえる性質が人間の本質だと私は思う。
大したことではない。地球の覇権をどうこう、発展をこうこうと講釈されても、我々の生は苦しみに満ち続けている。滅びるまで変わるまいて。
これはヒトの何かが優れているなどという“生産的”な話ではない。
人間は歩き回ることに快感や快楽を覚える者が多い。私もそのつまらない
今『絶望死』という本を読んでいる。(原題TIGHTROPE 著 ニコラス・D・クリストフ シェリル・ウーダン)
アメリカ労働者階級に広がる絶望的な現状と、それによって亡くなる人々をルポした本なのだが、その中で、人間は自宅で生活保護や障害者年金を貰ってひきこもっているより、働いている方がQOLが上がるというデータが紹介されていた。
今一つ認めたくないところではある。やはり労働は人をすり潰す悪徳だと思ってしまうのだ。
しかし労働ではなく、活動といわれれば納得できる。
それも、できるだけせかせかと動く方がいい。
一昨年であったか、ポスティングの仕事で一日10Kmも歩いていた。なかなか過酷なようにも思えるのだが、気分はすっきりとしていた。
真似をせよというのではないが、「人間は歩きたい」と、これだけを心に留めておいて頂けると、あなたの絶望が、いくらかでも減じられるかもしれぬと思い書いた。
これを書き終えた現在は日曜の早朝だ。
天気が良いので散歩に出ようと思う。
私は歩く。あなたは。みなまで問うことはしない。
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