幸福に興味はない。

 私のごとき虚ろな人間に残った唯一の生真面目な部分として、「とりあえず、やってみてから判断する」がある。


 気乗りせんでも、勉学であれ運動であれ労働であれ、ひとまず一通りはある程度に何年か続けてみるのである。


 そうして「やっぱりだめだった」と諦める。


 うむ。


「そういうところがいかんのだ」とおっしゃる向きもあるだろう。


 予言の自己成就とでもいうのか、「おそらく自分には向いていないだろう」から出発してしまうから、「やはり向いていなかった」に到着するのだ、と。


 理屈はよく分かる。


 しかしながら、考えてみて欲しい。「見る前に飛ぶ」芸当を誰ができるのか。


 実際には誰もが、「なんとなくできそうな気がすること」をやってみて成功するのではないだろうか。


 この、向き不向きに対する第一印象や感触は、論理性が無いだけに無視できない要素ではないだろうか。


 要するに。


「生きることに向いていない」とのファーストインプレッションから、ここまでまったく生き辛く生き苦しいまま生きてきた友よ、今日も息をしているか。


 こう呼びかけたいのだ。


 五月だ。


 何かをせねばならんという気にさせる四月が無事、過ぎた。


 生き物がやらねばならんことなど何もない。なのになぜ、そのように思ってしまうのだろうかと考えた。


 ひとつ、我ら人間は、快楽を過剰に評価してしまって、あまつさえその状態を「幸福」などと呼んでしまったがために苦しんでいるのではないか、と仮説を立てた。


 書きながら、なんとも目新しさのない説であるなと苦笑するばかりである。


 しかしながら、快楽なる脳に芽生えた厄介な代物をどう処すかは、避けようのない生の命題であろうと思う。


 過ぎたるはなお及ばざるが如し。それがこころよいからといって、快楽が続く状態を幸福と名付けるのは、人類史におけるミスであったとさえ思う。


 正直に申し上げれば、不快が無くなればそれで十分で、それを上書きするような快楽は不要だ。


 なぜなら、そのうちに快楽が無いことを不快に感じてしまうようになる。幸福中毒患者の一丁上がりである。


 我々はあくまでも、不快や苦しみや悲しみを消すために行動すべきだと思う。快楽や喜びや楽しみを得るためではなく、だ。


 不快を消していく過程ですっきりとしたものが得られることにまで反対はしない。


 実は最近、私の脳は快楽づいている。


 その理由は恐らく、先月の終わりごろから朝にコーヒーを三杯飲む習慣を始めたことだ。


 カフェインは、手っ取り早く爽快な気分を与えてくれる。もっと早く始めれば良かった、と思いつつ、どうせ早晩飽きてしまうのだろうなという未来予測も立っている。


 毎年そうだ。


 何かを始めようという気分に当てられてなにがしか始めるのだが、ほとんど続かない。


 幸福にも、すっかり飽き飽きしている。友よ、あなたは続けられている習慣はあるか。無いのなら、不快を消すという習慣はどうだろう。幸福は、どうでもいいではないか。

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