心を亡くしたとき。

 忙しくしていた。


 心を亡くすと書くとおり、忙殺なる徹底して物騒な文字列の熟語があるように、忙しいのは悪徳である。


 健康で文化的な人間的なる生活には、あり余る暇が必要だと改めて実感している。明日から、再び早寝遅起き昼寝つきの日々に戻れる予定である。


 が、ゆめゆめ忘れてはならない。


 我々は、不快な地獄か快適な地獄かを選ぶことしかできない。


 当代一の哲学者たるかのゴータマ・シッダールタが喝破した一切皆苦を持ち出すまでもない。文字通り死ぬほどの苦痛をもって死なねばならん我らの命は、存在そのものが苦しみである。


 誰もが苦しんでいる。例外は無い。


 ただ、その中に苦痛の数が少ない、気楽な生があるのみである。


 であるからして、誰もが気楽になるべきだ。


 財産、家族、幸福などと、余計な荷をこしらえて背負い潰れる必要はないのだ。


 少し違うな。


 そういったものを、重く捉えすぎるのがいけない。


 諸行無常。変わらぬものは無く、失われぬものも無い。


 出逢いの幸福は、別れの不幸を伴っている。


 禍福はあざなえる縄の如しと、旧い人々はよく言ったものよ。


 何かを得たときに味わう幸福感や快楽は、それが失われる不幸と不快の前奏だ。


 決して消えない真なる幸福を求める心性は、まさしく餓鬼がきの所業といわざるをえない。渇きが訪れないために海水を飲み干すが如き本末転倒である。


 しかしこの世には、そのような哀しき仕草で溢れている。


 一般的に真っ当な企業で働いていた当時、私は壊れたことがある。


 そこの従業員は、誰もが同じような人生の目標をもって働いていた。


 将来性が見込める事業を過酷な三交代の工場勤務で支えつつ、車を買い、家を買い、家庭を持ち、子供を作り、自らも成長し給料を上げ、出世する。


 私はそんな人々が集まる環境に耐えられなかった。


 いずれ間もなく失われる“幸せ”を得るために努力する人々を見続けることに、まずもってなにより耐えられず、心身が悲鳴を上げたのだ。


 私には彼ら(その職場には男性しかいなかった)が、虚しい苦行を自らに課す修験者に見えてならなかった。


 その姿が、あまりに憐れで、哀しかったのだ。


「貴様なんぞに憐れまれる筋合いはないわ」と、お怒りの向きごもっともだ。謝罪する。とはいえ、哀しくなるのは止められない。


 私とて、人生の本質が虚ろだなどと思いたいわけではない。


 だが、そうでない可能性を深く検討するほど、さながらイラストロジックで正解以外のマスを塗りつぶしたかのように「虚無」の一言が黒く縁どられ浮かび上がってきてしまうのだ。


 日々の作業に忙殺されているとき、頭に去来するのは「なぜこのようなことをやっているのだろう」という問いだ。


 将来のため、とか、未来のため、とか、幸せになるため、とか、自分が明日も生きるため、などとお仕着せの回答をしてしまった途端、全身から力が抜けてしまう。


 そんなもの、私にとっては、至極どうでもいいことだからだ。


 そのたびに私は、心を亡くしてしまうのである。


 友よ、あなたは今どうしている。息つく間もなく忙しいか。


 だとしたら、それは心を亡くしてまですることだろうか。どうだろうか。

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