人生とは“私”と“死”の共有資産である。

 友よ、驚くなかれ。


 今回の本題は、すでにタイトルで終わっている。


 なので、本文は頭から尻まですべて蛇足だ。


 いつも以上にごゆるりとお読みいただける。私も気が楽だ。


 私の命には何の価値もない。


 その考えに深く納得がいった時点で、我が人生、半ばあたりかそれ以上まで済んだものと思っている。


 生きている価値のない者が生きている。そこでお仕着せの価値を求めず「ならば私の行為のすべては無価値だ。死ぬことさえ無価値だ」という方向に行けたのが、未だ私がSSRIやオランザピン、睡眠導入剤いらずの生活を続けられている理由だと思う。


 私にとっては、自分の死も他人の死も、それほど差がない。


 自分の命を惜しむ程度には他人の命を惜しんでいる。つまり、あまり惜しんでいないということだ。すべては無価値だ。だからこそ平等だ。


 人間に生かすほどの価値もないが、殺すほどの価値もない。以前も書いたが、植松死刑囚はそのあたりの省察がまったく足りていなかった。行動力だけはある馬鹿者はこれだから始末に負えない。そして私は、介護施設で殺害されたすべての命と同様に、件の馬鹿者の命をも惜しいと思っている。


 人生は、ある日突然プツリと終わる。


 その理不尽を、私は受け入れた。具体的には、やりたくないことはやらないことに決めた。今日死ぬと分かっていて仕事に向かうか。向かうのであればそれは恐らく善いことである。誰もが、今日の死を想っても平常通りで居られる世界こそ、平和と呼べるのだろう。


 不老不死について、今一度考えてみる。


 死と共にあった人生を我が手に独占できるのだろうか。


 いや、いくら個人が死から解放されたとはいえ、地球にも、太陽にも、宇宙にも寿命はあるわけだから、どちらにせよ碌なことにはなるまい。


「無駄な抵抗はやめて、おとなしく死ぬことを受け入れよ」が、私の結論である。


 最近、ライブ活動の方が忙しくて手紙をなかなか書けないままであった。


 いや、こんな文章、書こうと思えば毎日でも書けるのだが、気持ちの持って行き方という部分で、果たして盛大に歌い騒いだ直後に書くような類の手紙なのだろうか。との疑念があった。


 杞憂であった。


 今でも、ライブハウスの楽しいウキウキとした雰囲気が身体の中に残っている。まさに、今日死ぬとしたらあの“仕事場”に向かいたいと思うほどに、だ。


 だからといって、死を想う声はやまない。


 あちこちから聞こえる「死にたい」に反応に何かが書き上がってしまう。


 あまり細かいことは考えずにおこう。


 人生を憎んでいない。また、愛してもいない。


 それは私のものでありながら、その所有権は半分程度であり、あとの半分は死が持っているからだ。


 適当にやっていこう。あとは“死”が考えてくれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る