生まれてくる意味など無い。

 先日、同胞が一人、冥途に渡った。


 親からネグレクトを受けた末の餓死、三歳であったそうだ。


 こうして、また私の「人生は無意味、生命は無価値」という考えに確信が増す。


 そうであろうが。


 親からも誰からも愛されず守られず救われず、三年で空腹のなか息絶える人生に何の意味が見出せるというのだ。そのようにしか生きて死ねなかった命に何の価値があったというのだ。


 それでも、などと言うのはやめられよ。理屈と膏薬こうやくはどこへでもだ。そんなものをねて塗ってなすり付けるより、「無意味」と断ずればそれで済む話である。


 そして、娑婆に生きる全員が自らの命を「無価値だ」と諦められたなら、そのとき、この世は意味と価値を永遠に渇望する愚かな餓鬼道から抜け出し、少しだけ優しくなっているとも思う。


 言い過ぎだったかもしれない。少しだけ、楽に死んでいける、くらいにしておこうか。


 いずれにせよ、だからといって児童虐待が無くなることはないだろうし、あの子は三歳かそこらで死なねばならん運命だったのだろうが、それはそれとして、だ。


 無意味、無価値、と繰り返し唱えていこうと思う。


 本題は以上。以下は、閑話である。


 我々は死を知る生き物だ。ほかの動物のことは訊いてみないと分からんし、訊いてみても猫は今日も「なー」としか言ってくれないわけだが、少なくとも人間は、それこそ三歳児でもなければ自分がいつか必ず死ぬという知識を持っている。


 死ぬと分かって何故生まれてくるのか。生もうとするのか。


 それはな、友よ、そもそも「なぜ?」と問うことが間違いなのだな。


 理屈と膏薬はどこへでも付く。これも、そういう話だ。


 生むことについて、特に理由はないし、意味もない。


 死ぬとか生きるとか考える間もなく「できちゃう」のだ。そういう、どうしようもない結果が先にあって、後からそれらしい大仰で高尚な理屈が付けられていく。


 では、なぜ「できちゃう」のか。それは、生殖と快楽が繋がっているからだ。「気持ち良いこと」がしたいという欲求に逆らえない。命の罠、遺伝子の罠とも言えようか。だから、我々は死ぬと分かっていても生み出すことをやめられない。友よ、我らは阿呆なのだ。


 子供が欲しいのではない。どこまで行っても、我らは快楽が欲しいだけだ。そしてそれは、否定されるべきものでもない。何しろ我らはどこまでもいつまでも少しだけさかしい阿呆の猿なのだから。


 える意味など一つもないが、滅びるほどの価値も持たない。


 我々は大した生き物ではない。


 これも、これからずっと、口酸っぱく語っていきたいことの一つだ。

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