こんなところで、よかろうよ。
夏は音楽系のイベントが増える時期だ。
ここでの小説やこの手紙などと並行して曲を作って歌うなどしている私のごとき木っ端にも、いくつか誘いが来た。ありがたい話である。
とはいえ、求められる役目はそう大したものではない。
興行主、イベンターといった方々にとって、もっとも大変なのは人集めだ。どこの馬の骨とも知れないが五体と声帯があるならそれで結構、とばかりに、ばら撒かれたメッセージアプリ散弾銃に当たった格好だ。
ただ、
「そんなもんでよかろうよ」と思えるようになったのは、つい最近だ。
私はずっと、人の輪を作り、その中心にいる人間というのに憧れがあった。
いわゆる顔の広い人間、人脈のある人物は格好いいと思っていたのだ。
だから、自分の裁量で人を集め、小屋を借り、イベントを打ってみたりもした。
だが、無理であった。なりたいような者になる才覚がなかった。
そもそも、私は人が好かん。
人間、自分も含めた人類に対する絶対的な嫌悪と軽蔑、そして私の統合失調質な脳は他者との交わりをひたすらに心労としか捉えられない。
そんなに人間嫌いなら、いっそ山奥か孤島にでもひきこもっておれとはなるほどその通りではあるのだが、残念ながらそちらの才覚もてんでない。無価値な命がせっせとこしらえた文明にただ乗りできねば、三日と持たず餓死するであろう。
なら死んでしまえと、それも納得その通りだ。私はこれまで書いてきた通り、どちらかといえば生きる理由より死ぬべき理由の方が若干多い人間だ。
生まれつき、脳がこの現代の世を生きるようにはできていなかったのだと思う。
生まれ損ない生き損ない、挙句の果ては死に損なって愉快に歌など歌っている。
まったく救いようもない。
それらもすべてひっくるめて「よし」としたのだ私はな。
思えば、無駄な遠回りばかりしてきたと思う。
この世を渡っていくのは自分には無理だと、最初から、ある程度は分かっていた。分かっていたが、そうではない可能性がほんの僅かでもある限り、私は歩まねばならなかった。
そして、ようやくとその可能性も
音楽も小説も、創作活動などはすべて、このどうにもこうにも間尺に合わん娑婆に適応しようとした悪あがきの
もはや、座して死を待つ以外にやることの無くなった長き老後の手慰みといったところか。
何の不満もない。
昔は「疲れた」が口癖であったが、思えば、ここ数年は言っていない気がする。
ならば上出来だ。
私は、収まるべき場所に収まった。
さて、友よ。
人生が思うようにならなかった友よ。
そもそもこの世を生きる才覚が無いと悩む友よ。
その予断は恐らく当たりだ。残念ながら。無念だが。
あなたがもっと立派に、華麗に、上手に世渡りをしたかったことは分かる。
分かるがしかし、それは無理な話なのだ。
友よ、たいそう疲れたであろう。
そろそろそこらの適当な場所に腰を下ろしてもよいと思う。
死ぬかどうかは、その後で決められよ。
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