不死について

 論外だ。


 今日の本題は三文字で終わった。私は読む人らに易しい手紙を書けつつある。


 では、蛇足を続けよう。


 人が死ななくなる?


 そのようなことを誰が言い出したのだ。


 その阿呆はこの世に地獄を作る気か。


 既に屋上屋を架す行為かもしれんが。


 苦が生存によって生じている以上、不死とはすなわち永遠の苦しみを指す。


 私はそれを地獄と呼ぶ。


 病気や寿命による死が無くなる、非死ひしという考え方もあるそうだ。ただし、事故死はする。こちらは自殺の自由が認められている分、いくらか人道的だと思う。


 少なくとも、不死は明確に拒絶せねばなるまい。


 死なないことによって起こる不快は、死が約束された時代を上回る。当然だ。それまでなら100年と経たずに終わっていたはずのものが、千年、万年と積み上がる。


 その分、快楽も増えるという反論もあるかもしれない。その通りだとも思う。


 しかし、「人は飽きてしまう生き物だ」という観点が不足している。


 これまで何度か書いてきたように、ひたすらに快(=幸福)を求め続ける仕草こそが苦しみの入り口である。快楽には飽きが来る。渇望。無限の快楽を望む人々は、海水で喉を潤すが如く、飲んだそばから渇くばかりだ。


 不死はやはり、論外だ。


 目指すべきは、不死よりも不感だろう。


 痛みも苦みも喜怒哀楽も、すべて感じなくなればそれは良いことだ。


 また繰り返しになるが、幸福は、苦しみに満ちた生から一時目を逸らす快楽の言い換えである。


 苦しみがなければ、誰も幸福を必要とはしない。なんとなれば、感じてしまうことが問題だからだ。


 私の言葉を読んで『すばらしい新世界』(小説)や『リベリオン』(映画)の如きディストピアを夢想しているように思われただろうか。


 しかし待ってほしい。


 管理社会が忌み嫌われるのは、結局そこから新たな苦しみが生まれるからだ。


 ディストピアの為政者は、必ず市民を苦役に処す。それは金のためだったり、何らかの高尚で手前勝手な野望のためだったり、はたまた『1984年』のように、ただたださらなる権力のためだったりするが、いずれにせよ碌なものではない。人間の営みに、苦しみは尽きまじ。


 私は、寡頭政治による専制主義的国家の長になりたいわけではない。


 社会を存続させようという方向性で物を考えるからおかしくなる。


 私の夢想の矛先は、いつだって柔らかな絶滅へ向かう。


 苦しまずに死ねる。これほど甘美なことは無い。


 苦痛なき滅亡。これがすべてだ。


「本日はいつになく狂人の一人語りがきまっているな」と思われた方もおられるだろうが、私は本気だ。


 この手紙に、落としどころはない。そもそもが蛇足であるのだし。

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