あなたが死んだら。
家族を含め、他者が亡くなっても、特に何とも思わない。
このままだと、ただの冷血人間だ。いや、それでも構わないのだが、読み手の胸中にいたずらなさざ波を立てるばかりなのもよくない。そこに至る経過を書こう。
死に際し、内面的には、いろいろと考えている。
それは哀しみであるし、虚しさであり、怒りであり、安らぎであり、喜びであり、うんざりもするし、腹の底から笑えもする。
ありとあらゆる感情が隆起するので、結局、平坦なままだということだ。
一つ一つ見てみようか。
まず、哀しみとは、死に至るまでの苦しみを思うことだ。想像するだけでも恐ろしい辛苦である。そんなものを感じざるを得なかった同胞の境遇を哀しく思う。
次に、虚しさ。苦しみに満ちた死によってしか完結できぬ、これもまた苦しみに満ちた生への虚しさだ。人生に意味は無く、生命に価値は無いとする私の思想信条に、虚ろな補強がなされる瞬間。
怒りの矛先は、私を含めた人類種に向かう。死に絶えることを知りながら命の再生産を止められない性欲の奴隷。滅ぶことでしか癒されない性根を持つ、知恵と盛りのついた小賢しい猿ども。それでいて、所詮は地球の機嫌を伺わねば生きられず、わざわざ自分たちから滅びを選び取る意味も価値もない。どこまでも愚かな
安らぎは、「すべて終わった」という安堵だ。無は有より善い。幸福/快楽があることより、不幸/不快が無いことの方が重要だ。
喜びは、安らぎの後にほんの束の間、訪れる。死は忌むべきでも尊ぶべきものでもないが、死ぬことができるという
うんざりとは、虚しさに似ているようで少し違う。マンネリを通り越して伝統芸能の域に達しつつある一発芸や駄洒落を見たときの感想だ。「またそれか」と「いい加減にしろ」というやつだ。
それでいて、阿呆が阿呆であることは正しく喜劇なので、笑ってしまう。死ぬと分かって産まれ続ける、苦しむと分かって生き続ける、哀しく愚かな猿回しの芸人がまた、一世一代の“お陀仏”を演じたのだ。笑ってやらねば浮かばれん。
それらの感情が、他者の死に際し遠慮も矛盾もなく一度に襲ってくる。
「何とも思わない」
と、そういう感想になる。
あなたが死んでも、私は何とも思わない。
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