とっくに壊れたものを指して、壊れそうだと言っている
「死んではならない」
「生きねばならない」
この道徳は、いつどこで生まれたのであろう。
私の仮説では、偉い人間が死に直面し、生き延びた後だ。
死ぬのは怖い。ほとんどの動物にとってはそうだ。
何故そうなっているのかは、そうではない生き物を想定すると答えらしきものに辿り着ける。
つまり、死が怖くない生物は、長く生きて子孫を多く残すのが難しいはずだと思われるということだ。
もしくは、勇敢さと臆病さの多様なグラデーションが、生物を繁栄させるのかもしれない。話半分で聞いて欲しい。私に学は無い。
死への恐れが、進化の過程で有利な特性として残されたのかもしれない。
いずれにせよ、恐怖に理屈は通じない。怖いものは怖い。それで十分だ。
だから「生きねばならない」は道徳として間違っていると思う。
死が恐怖なのは、身体や脳がそう感じるように構築されているからだ。不道徳的な行為に、身がすくんでいるわけではない。
道徳的正しさを求めるのならば、むしろ「死は敵ではない」の方がいい。
死を悪魔化して、悪しきものとして捉えるのは、間違いだと私は思う。
私は幸福という価値観が分からぬ人間だが、適応的な人々に寄り添った言葉を探すのならば「別れこそ幸い」という道徳もいいかもしれない。
離別は苦しみではなく幸いなのだと、決して十全に満足ではない今を脱し、より善い世界に旅立つ仕業であるのだという道徳だ。悪くないのではないか。
ここで、話を変える。
さまざまな国や地域の医療がひっ迫し、破綻しそうだという声が多く上がる。
それを聞いて、ほんの一時期とはいえ医療現場の末端の片隅に与していた私などは、疑問符を浮かべざるを得ない。
この国の医師や看護師の方々の働き方を間近に見てきた一個人の感想だが、職業としての医療従事者は、既に崩壊している。
とても、人間ができるような働き方としてデザインされていないのだ。
朝も夜も、平日も休日もなく、文字通り休みなく働き続けなければ回すことができない体制。休めない。眠れない。終わらない。
術後のオペ室の掃除や、医療器具の滅菌作業をしているだけだった私は「あの人たちはいつ寝ているのだろう」と思ったものだ。
そんな、既に壊れたものを指さして「今にも壊れそうだ」と叫んでいる。
随分、おかしなことを言っておられる。
話を最初に戻す。
医療現場が壊れてしまっているのも、人類があまねく信ずる道徳的価値観によるところが大きいと思う。
「生きねばならない」から、「死んではならない」し、「生かさねばならない」になる。
だが、その道徳を支える手はまったく足りておらず、今も自壊を続けながら、どうにか体裁だけは整っているという有り様だ。
自家中毒、と申し上げてもよろしかろうよ。
自らが作った規範、道徳に絡めとられ、苦しんでいる。
ここはやはり、価値観の転換が必要と思うのだが、どうだろうか。
希死念慮に全身を締め付けられている友たちにも、悪い話ではないはずだ。
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