命の罠

 この娑婆に生を受けたその日から、我々は一人残らず、生存中毒の、快楽依存症患者である。


 戯れ言の説明ほど不毛なものはないが、聞いてくれるか、わが友よ。


 全自動的に動く心臓と、細胞分裂と、代謝によって、我々は自然と生存活動に従事させられる。

 もがけばもがくほどに絡まる蜘蛛の巣や、蟻地獄の如く。


 しかしながら、生命とは塵にも等しい宝石、つまり無意味であって、人生とは本質的に死ぬまで続く苦しみである。


 であるから、我々はその事実に向き合い続けないよう、必死にその場しのぎの快楽を追い求め続ける。


 ここに、生命は巧妙な罠を張った。


 生殖に快楽が伴うように仕向け、死をもたらすものに痛みと不快を与えたのだ。


 結果として、人生に文字通り四苦八苦する者は、ひたすらに産まれ続けている。


 やがてやってくる死を知りながら、命を生み出すことをやめられない。

 無意味・無価値と割り切ってしまえば発狂することもなかったろうに。

 人は、命に意味と価値を求めるあまり、不毛極まる殺し合いを始めた。


 なんと哀しい生命体だろうか。


 己らが吐いた嘘に騙され、当座をやり過ごす力しか持たない快楽を『幸福』と呼び、永遠に続くよう、所望する。その先には必ず、それを失う苦しみが待つ。


 私たちは、同じようなことを繰り返す者を麻薬中毒者と呼んで、ときに蔑むことがある。が、なんのことはない。幸福を求め続ける“健常者”と、その仕草はほとんど変わらない。我々は、快楽に耽溺する生存中毒者である。


 死を知ってからこちら、私も含め、人類はそんなことばかりしている。


 これでは、ふれあい動物園の檻の中でのほほんと飼われているカピバラの方が、数段、善い生活を送れている。


 生まれてしまっては、できることなど、もはや、できるだけ浴びる苦しみの雨を避けることくらいしかないというのに、だ。


 雨、そう、苦しみとは、雨である。


 降りしきる時と場所を選ばず、にわかに襲うそれに、人はただ、濡れるしかない瞬間が訪れる。


 苦しみという名の雨は、凌ぐことしかできない。


 それを達成するため、我々はまた、束の間の快楽に頼ることになる。こうして居丈高いたけだかに散文を撒く私とて、同じ穴のむじなである。


 一つだけ、違いを挙げるとするならば。


 私は、決して幸福になることを求めていないということだ。永遠の快楽など存在しないことを、知っている。命が張り巡らせる罠を、解除する方法を知っている。


 それは、諦めることである。


 人は、幸せになれない。


 誰かが言った永遠に続く幸福など、存在しない。


 それを心の内ではっきりと、明らかにしたのだ。

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