他人事は放っておけ
世間を騒がせた殺人事件の被告に、死刑判決が下った。まだ確定ではないが、遺族は「自分たちの気持ちを代弁してもらった」とおっしゃっているそうだ。
そうか。
どうにもぴんとこない。
家族を殺した人間の死を望む心境とは、なんなのだろう。
家族とはいえ、他人事ではないか。
分かっている。
案ずるな、友よ。
身内の不幸を“他人事”と断ずる神経は受け容れられ難い。重々承知している。その上で、一筆したためておるのだ。客観性を失わないことが、木っ端物書きとしての矜持でもある。
話を戻す。
私は、自分が危害を加えられたわけでもないのに、加害者に死刑を望む気持ちが分からない。
無論、まったく嫌悪感がないわけではない。前にも書いたように、私は殺人を軽蔑している。「なにも殺すことはないではないか」と怒りを覚えるだろう。
しかし、だからといって、直ちに殺人者を死刑にせよなどとまでは思わない。それとこれは別の話だ。私の怒りは私のもの。殺された者の痛みと苦しみは、死者のものだ。そこは明確に分けて考えたい。
しかし、件の彼らは、他者の痛みを、自分の痛みのように引き受けている。
それは慈愛と共感に満ちた尊い行いにも見えるが、同時に、自他の境界があいまいになっているのではないかと不安にもさせる。
逆か。私が区別をつけすぎているのか。
いずれにせよ、愛は常に執着と隣り合わせである。執着は争いと不幸のもとだ。
私は、専門医から、スキゾイドパーソナリティ、統合失調質人格と診断された人間だ(いわゆる人格障害とは別の、性格の傾向の話である)。
が、自分とはまったく別の人格と人生をもった他人のことを「自分の命より大切だ」とまで深く思うというのも、なかなか統合失調的に見える。
何気ない他人の雑談が、すべて自分への悪口に聞こえてしまう心の動きと、家族という“他人”を殺され、死刑を望む心境の間には、どれほどの距離があるだろうか。
話は変わるが、今年(2020年)に入って、ネットを見る時間を極端に減らした。
若干、中毒のようにもなってしまっていたのだが、それはまだいい。
しかし、自分とは何の関係もない、それこそ他人事に、精神を振り回されてしまうのが大層不愉快だ。
以前は、そういう無駄なストレスも、無駄だからこそ楽しめていたところがあったが、趣味嗜好とは変わるものだ。
単純に、ストレス耐性がなくなっているだけかもしれないが。
いずれにせよ、他人事は、ほどほどに、だ。あまり気に病まれるな友よ。どうせ、他人事だ。
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