最終話:ヒモになりたい俺は、ヤンデレに飼われることにした
どたりと、尻もちをつく。
俺の腹部に突き刺さった包丁……じわじわと、赤色の液体が漏れ出ていって、マリアがぽかんと口を開く。
「なに、やってんのよあんた……」
「悪い」
俺は、にへらと笑う。
「しくじった」
見る見る間、足元に血溜まりが出来上がる。
脱走防止用の高圧電流が流されている、大型のペットゲージ……餌用の皿がひっくり返されて、“特別製”のご飯が床に散らばっている。両手両足を戒めていたSMプレイ用の手錠は、マリアの手で外され転がっていた。
「うそ、でしょ……なん、で、あんた……こ、この程度で、き、桐谷彰が死ぬわけないでしょ……なんで、あんた、刺されてんのよ……ちょっと、ねぇ……」
傷口を押さえつけて、溢れ出る赤色を止めようとしているマリアの手が、あっという間に真っ赤に染まっていく。彼女の服にも染み込んでいって、もう、どうしようもなく汚れていった。
「ばか……避けろ……!」
俺が、マリアの肩辺りを蹴りつけ――突っ込んできた、
からんからんと音を立て、
自分が刺されかけたことを理解したマリアは、顔を真っ青にして震えながら、床に落ちた包丁を見つめる。
一秒、二秒、三秒……思い切って、取りに行こうとした彼女の足を掴んで止める。
「やめろ、ばかが……とっとと行け……外に出れば、通行人がいる……そ、そいつらに助けを求めろ……スマホは取り上げられただろ……」
マリアの両目が、逡巡する。
俺を見捨てるかどうか、己の命を拾うかどうか――そして、決断した。
「ふざけんな……」
倒れている俺の前で、守るようにして両手を広げ、涙を流しながら彼女は叫ぶ。
「ふざけんな、バカッ!! 好きな
「…………」
ゆらりと、女は立ち上がる。
髪の隙間から覗いた、真っ黒な瞳。振り子のように、小刻みに揺れている。
「…………」
そして、音もなく、床に落ちた包丁を拾い上げる。
「桐谷!! 桐谷、ほら、立って!! 早く!!」
「ばかが……」
俺は、マリアの肩を借りて、立ち上がる。
ワンパターンに正面から突進してきた
「桐谷……だ、だいじょぶ……だいじょうぶだから……あ、あんたが……あんたが、死ぬわけない……死ぬわけないでしょ……ね……そうだよね……」
「お前、泣いてるのか……」
ぽろぽろと涙を零しながら、必死に、俺を支えているマリアは上を目指す。
一段、一段を踏み上がって、生存の道を選ぶ。
「……ここでいい」
上がりきったところで、俺がささやくと、マリアはぶんぶんと首を振った。
「いいから、下ろせ……まだ、話せるうちに……早くしろよ、
なにかを悟ったかのように、マリアは、そっと俺を床に下ろした。
刺された腹を押さえながら、壁に背を預けた俺は、マリアにつぶやきかける。
「淑蓮に伝えろ……『死ぬな』って……死んだら、アッチで、一言も口を利いてやらんって言え……それと、水無月さんたちに……あの
「うそ、だよね……ね、桐谷……うそだよね……ねぇ……」
「そうだ、一番、最後に……重要なのがあった……先生に……モモ先生に伝えてくれ……」
俺は、笑う。
「約束は、果たした」
「どういう意――」
渾身の力で、マリアを蹴り飛ばす。
「じゃあな、相棒」
普段は、隠されている回転扉、後ろに転んだマリアの身体が当たってくるりと回った。俺は、自分の腹に刺さった包丁を引き抜いて、マリアが駆け寄るよりも早く、二度と開かないよう下部の隙間に切っ先をねじ込む。
「桐谷!! うそでしょ!? ねぇ、桐谷!! ふざけんなっ!! 開けろ!! 早く!! ねぇ、桐谷ッ!!」
何度も何度も、マリアは両手で、壁を叩いていた。
回転扉に背を預けた俺は、満足感からくる微笑みを浮かべて、階下へと続く階段の奥……暗闇から覗く、ふたつの目玉を見つめる。
「よう」
俺が、気さくに片手を挙げると――彼女は、ぎらついた殺意を反射させる。
「
獣じみた動きで、階段を駆け上がってきた
衝撃で仰け反って……静かに、全身を弛緩させる。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
俺の胸元に蹲って、息を荒げている彼女の頭を、俺は優しい手付きで叩いた。
「……ご苦労さん」
目を、閉じる。
長い長い旅路が終わって、俺は、ようやく休める気がした。
――アキラくんは、なんのお料理がだいすきなのかなぁ~?
「先生の作る……料理なら……」
俺は、微笑んで――
「なんでも……美味いよ……」
力を、抜いた。
あれから、二年が経った。
一時期、研究に打ち込みすぎて、出席日数危うしと思われていた由羅先輩も、アレを契機に人が変わったみたいにして模範的な生徒となった。
かつての半身である
「マリア~! 放課後、先輩たちと一緒に、駅前行くでしょ~!?」
「ごめん! 今日、用事ある!!」
「え~!?」
あたしは、学友たちに別れを告げて走り出す。
美しい、桜並木。
見事なまでの桜吹雪が、視界を埋め尽くしていた。
風がそよぐ度に、吹き荒れる桃色の嵐。駆け抜けるあたしの道程に、綺麗な桃色を敷き詰める。
あたたかな空気の匂いを、肺いっぱいに吸い込んで、新しい季節の到来を感じた。
「……二分、遅刻」
「二分くらい、許してくださいよ」
公園のベンチに腰を下ろしていた彼女が、立ち上がって微笑む。
「卒業おめでとうございます、水無月先輩」
「ありがとう」
受け取ったばかりの卒業証書を片手に、美しい笑みを浮かべた彼女を視て、改めて規格外の美人だなと感じた。
「ごめんなさい。この次のバスに乗らないといけないの。
歩きながら話してもいい?」
「あ、はい。もちろん」
あたしたちは、バス停を目指し、並んで歩き始める。
「…………」
「…………」
穏やかな微笑を浮かべて、歩く水無月先輩は、まるで春の妖精みたいだった。
道行く人たちは、彼女とすれ違う度に、幻を視たみたいにして振り返る。こんなにも、桜の季節が似合う人は、そうそういないのだから仕方ない。
「……ねぇ」
「あ、はい」
綺麗な声でささやかれ、あたしは、凡俗な返事を返す。
「どうして、最後に、わたしと話そうなんて思ったの?」
「…………」
「当ててあげよっか」
イタズラっぽく微笑んで、水無月先輩はささやく。
「迷ってるんでしょ?」
「……はい」
「わたしに相談したところで、答えを出すのが貴女である以上、どうやったって無意味な相談教室になりそうだけど……アイスでも食べる?」
通りのアイスクリーム店を指さされ、あたしは、ふるふると首を振る。
「衣笠さんには、相談したの?」
「……自分で決めろって」
「へぇ。意外と、あの子って、厳しいところもあるのね」
いや、厳しいんじゃない。優しいんだ。
優しいからこそ、自分で決めろと、由羅先輩は言ったんだ。
途方に暮れたあたしが、自分の回答次第で、どちらにも転ぶと知っていたからこそ。あたし自身で決めることが最善だと考えて、『自分で決めろ』と返したのだ。
「わたしが、思うに」
あっという間に、バス停に辿り着いてしまった。
内心、焦っているあたしは、宝石のように煌めいている水無月先輩の横顔を見上げる。
「時間と決断は――比例しない」
「……え?」
ぷしゅう。
音を立てて、やって来たバスの扉が開き、水無月先輩が乗り込む。
そして、彼女は、あたしへと――手を差し出した。
「来る?」
衝撃、そして、巡る。
巡る。
巡る、巡る、巡る。
桐谷と一緒にいた時間が、桐谷と一緒に抱いた時間が、桐谷と一緒に笑った時間が……ぐるぐると、頭の中を巡っていった。アイツの憎たらしい笑顔が浮かんできて、振り回されたイラつきを思い出し、まともに相手をしてくれない不満を回想する。
利き手が、震える。
水無月先輩の手をとろうとした、あたしの右手は――ファインプレイだ、マリア!――ぴたりと、固まった。
「……どうしたの?」
「あ、あたし」
上手く、笑えたのか、わからない。
でも、上手く、笑おうと思った。
最後くらい――
「アイツに、ラーメンを奢ってもらったことがあるんですよ……?」
「そう」
水無月結は、微笑する。
「貴女、アキラくんに恋してるのね」
「え……」
目の前で、扉が閉まる。
もう二度と、開いたりすることのない扉が。
扉を隔てて、
透明な窓越しに、水無月結はささやいた。
「さよなら」
そして、バスは走り出す。あたしを取り残して。
あっという間に、彼女を乗せたバスは、視えなくなった。
数秒なのか数分なのか数時間なのか……あたしは、そこに立ち尽くしていて、来ては去っていくバスを、何度も見過ごした。
ようやく、歩き始める。
「は、はは……」
散りゆく桜を見上げながら、あたしはつぶやく。
「あ、あたしが、
――偉い! マリアちゃん、
「誰が……」
――ラーメンでも食いに行こうぜ。奢ってやるよ
「だ、だれが……だれが……」
――じゃあな、相棒
「だれがぁ……す、すぎになるがぁ……ばかじゃないのぉお……あぁ~……うわぁ~ん……うぁああああああ!!」
あたしは、もう二度と、逢えない
わんわんと、子供みたいに。
天を仰いで、両手で何度も拭いながら、泣き続ける。
いつしか、泣き止む時が来ますようにと。
祈りながら――泣き続けた。
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