ヨハネの福音書15章13節

 水無月結は、硬直する。


 予想外の動き、目の前で、首筋に刃物を押し当てられた桐谷彰は笑った。


「アキラくんっ!!」

「水無月、動くなっ!! よせっ!!」


 本物だ、間違いない。


 鈍く光る包丁の輝きが、日光を反射して、艶めいている。動きを止めていたフィーネと淑蓮は、唖然として立ち尽くしている。


 コレは、先生の仕組んだことじゃない……。


 額から汗を流している渚は、唇を震わせながら「よせ……」とだけささやいた。くすのきあやの姿をした誰かは、聞く耳を持たずに、アキラくんを拘束したままジリジリと後ろに後退する。


「フィーネッ!! 動くな!! そこで、止まっていろっ!!」


 先生の叫声で、くすのきあやの背後に回ろうとしていたフィーネは、ぴたりと動きを止めて舌打ちをする。


「……二重身Doppelgänger


 ――もしくは、沼男Swampman


 かつて、フィーネが、衣笠由羅のことをそう称していたことをゆいは思い出す。いや、アレは、衣笠由羅の“偽物”がいたことを示していたのだろう。


 ゆいは、直感する。


 目の前にいるこの女こそが、フィーネが警戒していた……衣笠由羅の“影”。


「桐谷……お前、なにをする気だ……」


 アキラは、ただ、微笑を浮かべる。


 渚とアキラは、見つめ合い――衝撃が漏れた。


「お前……死ぬ気か……?」


 瞬間、由羅の影とアキラは、同時に駆け出した。追おうとした淑蓮は、脅すように、ちらつかいた刃を視て止まる。誰も彼もが動けずに、ただ、見送ることしか出来なかった。


 過ぎ去りゆく影。


 数分待ってから、フィーネと淑蓮が追いかけ始める。その背中を見送ってから、ゆいは、渚の襟元を掴んだ。


「渚くん、どういうこと!? アキラくんが死ぬことは、避けられたんじゃないの!? あの女はなに!?」


 詰め寄ると、目を見開いた渚は、ぱくぱくと口を開閉させる。


「お、恐らく……マリアが話していた、桐谷を狙っている狂女ヤンデレだ……マリアの言葉に嘘はなかった……桐谷とマリアが、共同で仕組んだことじゃない……アレは、本物だ……マリアの前に姿を現したということは、前々から、桐谷が自らの誘引情報フェロモンで誘き寄せていた“道具”……」


 恐怖に象られた両目が、結のことを見つめる。


「あの女を利用して、桐谷は死ぬつもりだ」


 絶句する。全身の力が抜け落ちて、へたれ込みそうになった。


 渚の様子を視れば、彼女が演技や嘘であざむこうとしているわけではないことはわかった。凄まじい発汗と、冷え切った首筋から伝わってくる怖気。驚愕で見開かれた両目は、開かれたまま、戻らないのではないかと思わせるくらいだった。


「なん……で……そんなこと……?」

「そうすれば、愛を証明できる」


 渚は、震える声でささやく。


「わ、私が、桐谷に言ったことが、すべてひっくり返る……私の語った内容を、すべて、丸ごと信じ込んだということを“死”で体現すれば……兄の犠牲による愛も、モモ姉が遺した愛も、お前たちが向けた愛も、桐谷彰が死ぬことで証明できる……命を捨ててまで、桐谷が証明しようとしたモノを、私は『愛ではない』なんて言えない……認めざるを得なくなるんだ……アイツは、私の作り話を……用意した悲劇を……紛い物の愛を……すべて、本物にするために死ぬ気だ……偽物の愛を本物にするために……」


 彼女は、両手で顔を覆ってささやく。


「私の兄をなぞって、自己犠牲あいしようとしている」

「嘘だ……」


 ――負けられねぇんだよ、俺……


 ゆいの脳裏に、アキラの哀しそうな笑顔が浮かぶ。


「嘘だっ!! アキラくんが、死んでたまるかっ!! どういう仕掛けなの!? ねぇ!? なに企んでるの!? 貴女が仕組んだんでしょ!? アキラくんと、一緒に、わたしたちを騙そうとしているんでしょ!? ねぇ!? そうでしょ!? アキラくんが、死ぬわけないでしょ!? ねぇ!? ねぇえっ!?」


 思い切り、両肩に爪を食い込ませて、ゆいは渚のことを揺さぶる。力なく揺れている彼女は、亡者のような顔つきで口を開いた。


「わ、私はバカだ……な、なぜ、こんなにもムキになって……た、ただ、あ、兄の死を無駄にしたくなくて……わ、私は……どうして……な、なぜ、いつもこうなる……わ、私は……私は……」


 握り込んだ拳で、渚の右頬を殴り抜いた。


 パァンッと、小気味の良い音が響いて、正気に戻った渚の焦点が合ってくる。呆気にとられていた彼女の襟首を掴んで、ゆいはにっこりと笑った。


「まだ、止められる。後悔する前に、頭、働かせなさい。給料分、きちんと働きなさいよクソ教師」

「……符号だ」


 渚は、ぼそりとつぶやいた。


「ふたりは、協力関係にある。桐谷は己の命を対価に、彼女に協力を取り付けた。桐谷と狂女ヤンデレは、なにかを合図にして、楠綾と入れ替わった筈だ。そうでもなければ、見張っていた水無月たちに見抜かれる。

 事前に決めておいた、合図の符号が合った筈だ。思い出せ」


 わたしたちに気づかれないような符号。つまり、なんらかのマークであったり、狼煙であったり、そういう特徴的なモノ。


 そんな都合の良い代物が、目の前にあったら、普通は気がつ――『アキラ参上!!』。


「アレだっ!!」

「あったんだな?」


 ゆいは、首肯する。


「アパートで、渚くんの部屋の壁に、アキラくんが落書きしてたの。それが、後で『マリア参上!!』に書き換わってた。アキラくんがやりそうなことだと思って、なにも指摘しなかったけど、アレが符号で間違いないわ」


 既に歩き出していた渚は、ヘルメットをゆいに放り投げてくる。受け取った瞬間、赤色のボディをもった大型バイクが、ゆいの隣へと凄まじい勢いで滑り込んでくる。


「乗れ、私のアパートだ。痕跡を辿るぞ」

「フィーネたちは!?」

「桐谷が、なんの用意もなしに、この舞台を整えるわけがない。恐らく、かれる筈だ。合流している時間はない」


 渚の後ろに乗り込んで、彼女の腰に両腕を回す。ライダースジャケットを着た彼女は、ヘルメットのサンバイザーを下ろした。


「水無月」


 渚は、優しくささやく。


「桐谷が死んだら、最も苦しむ方法で私は死ぬ」

「その前に、わたしが殺す」


 返答は突風でかき消えて、大型バイクは勢いよく発進した。

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